『世直し道人 大津静夫 理想の里を夢見て一世紀』

 大津静夫は、北大阪医療生協専務理事・理事長を48年間務めて、2007年93歳で退任。
 2部で、大阪の医療・福祉運動を切り拓いてきた大津静夫が関わった運動の記録を、丹念に編集委員会がまとめている。敗戦直後の大阪を中心とした、平和と民主主義を築く運動がどのように切り拓かれていったかが、短い字数の中に高密度に描かれていて、当時の躍動感が伝わる。
 1部は、35名の各分野で活躍する人々が語る「大津静夫像」。「どっち向いて仕事してんねん」と怒鳴られ、各自の人生において困難を切り拓いていくポイントに大津の存在があったことを、どの人も語っている。
 3・4部は、本人が先人を語る言葉や評論が収録され、5部は関連資料で構成されている。
 1914(大正3)年播州赤穂で誕生。赤穂中学卒業後、神戸で普通選挙運動や川崎労働争議の息吹に触れ、河上丈太郎社会党委員長の演説会で検挙、長期拘留された。
 1933年、19歳で大阪府立浪速高校生物学実験担当者に採用さる。教員資格を獲得して1941年池田市の宣真高等女学校の生物学講師に就く。「武運長久を祈る」と教え子を戦地に送った痛苦の想いから、敗戦後直ちに池田市で教職員組合を結成し、大阪教職員組合の常任執行委員に専従して情熱を傾注。2・1ゼネスト禁止後の1948年3月12日、大教組は全国で初の24時間ストを敢行し、大津がその闘争委員長として指導力を発揮したが、1949年(35歳)に教員を辞めて、人権擁護大阪地方共同闘争委員会や大阪民主主義擁護同盟の活動を通じて、占領下の逆行の嵐の中、平和と民衆の生活を築くたたかいに専念する。ストックホルム・アピール平和署名運動、伊丹米軍基地の拡張計画阻止、原水爆禁止運動等々、戦後日本の平和と民主主義を築く運動の歴史とその躍動感が、大津の語りから伝わる。
 敗戦後の窮乏、飢えと栄養失調の民衆の苦しみに対して、医療民主化運動が取り組まれ、1947年2月十三労働会館付属診療所が、“大阪で最初の労組経営の病院”(=夕刊新大阪の見出し)としてスタート。1955年には北大阪医療生協が設立され、1959年12月、大津が専務理事に就く。以来、十三・東淀川・北大阪地域を拠点に、勤労者・住民の医療と生活改善の地道な活動が積み重ねられ、平和運動への地域丸ごとの参加も実現。これらの先進的な実践が、大阪総評を中軸とする健保改悪阻止、医療・年金制度抜本改革大阪実行委員会等の府民運動の代表として大津を押し上げた。1977年の全国初の「救急医療条例制定直接請求」運動では、有効署名数11万の3倍を越える37万人以上の署名をうず高く積んで、大津がその請求代表者として黒田了一知事に要請している写真は、グラビア頁に掲載され、全国の医療改革運動の記述でもよく登場する。“いつでも、どこでも、だれでも、安心して医療を受けられる”体制、いのちとくらしを守る府民運動の先頭に常に大津が存在した。
 北大阪医療生協の着実な展開は、年表とともに淡々と記述されており、その取り組みの先進的意義は大上段に語られていないが、全国にも例を見ない民間の病院建設への厚生年金還元融資で、箕面病院の開設(1964年)や新十三病院の増改築(1966年)を実現させた運動は、地域を原点としたたゆまぬ蓄積と政権への闘いとが結実したものである。
 1980年5月、大津は大阪府生協連合会副会長に就いた(66歳)。千里山生協との提携で、新たな診療所建設に取り組み、光風台診療所を開設、1993年には、特別養護老人ホーム“照葉(てりは)の里”を開設(79歳)して、ノーマライゼーションの理念を具現化した。
 これらの営々とした取組みの記述は紹介しきれないが、ヤンマー十三工場の公害とのたたかいと緑の公園化や、能勢ナイキ基地設置阻止をはじめ、生活原点での取り組みと労組・市民団体との地域共闘をバックにして勝利を獲得する運動の典型から学ぶことは大きい。
 書名“世直し道人”を名づけた柴橋圭介(編集委員会代表/関西大学生協理事長)は、大津の権力に対する攻撃的闘争心を、「まさに怪物、妖怪のような男」と評し、編纂の意図を、「市井の一人の市民の生き様として共通に痛み、かなしみ、よろこび、楽しむことにつながる」と述べている。
「理想の里を夢見て一世紀」の大津の歩みは、今なお全国に発信し続けられている。2010年96歳。(伍賀偕子)

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