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『八八歳レイコの軌跡 原子野・図書館・エルダーホステル』

 ライブラリアンとして、「エルダーホステル」(学びたい人の老人大学)の創設・代表として、20世紀を完走した豊後レイコの自伝。1920(大正9)年長崎市の青果卸小売商の次女として生まれる。大正デモクラシーの息吹をたっぷり吸って、昭和元年に小学校入学。県立長崎高等女学校卒業後、三菱電機長崎製作所に就職し、軍靴の音が高まる中でも、青春を楽しむ「OL生活」を過ごしていたが、開戦の翌年退社。1942年晩秋、姉を頼って北京へ。北方方面派遣軍司令部の外部機関にタイピストとして就職。1945年戦局が厳しくなり、姉妹で帰国準備をしたが、軍からストップがかかり、姉のみが帰国した。その結果、レイコのみが長崎での被爆を逃れることになり、1945年12月に帰国。妹を残して一家は全滅。被爆地長崎の惨状と人々の苦しみが、サブタイトルにあるように、戦争の不条理への怒りが再出発の原点だった。
 被爆した妹=福田須磨子は、「地獄絵を見た私の務め」と、病をおして執筆活動を続け、福田須磨子著『われなお生きてあり』(筑摩書房)は、1969年春に田村俊子賞を受賞した。1974年4月、レイコとその家族の介護のもとで他界。レイコは、「また一人消えた被爆の生き証人」と題して、朝日新聞に投書し、4ヵ月間の介護日記を、「春、須磨子死す」(『長崎の証言』第6集 / 長崎の証言刊行委員会編著、1974)にまとめた。
 レイコは、1948年長崎県庁のCIE(連合国軍の民間情報教育局図書館に採用され、ライブラリアンに「天職」を見つける。1950年結婚して大阪へ。大阪CIE図書館から請われて働きはじめ、講和条約発効にともなって、CIEは1952年アメリカ文化センター(ACC)となる。子育て(3人の男児)のため退職したが、37歳でACCに復職し、ワーキングマザーの生活に奮闘しながら、「情報を求めてきた人を素手では帰さない」と、レファレンスワークに、ライブラリアンのキャリアを磨く。子育てと仕事を両立させる奮闘記も思わず引き込まれる記述である。40代で「マイウエイ発見」、司書補の資格、英語検定1級、通訳案内業務試験にもエネルギッシュにチャレンジして合格。
 1969年には、3ヵ月の海外研修(ワシントン)も受け、世界のライブラリアンと共に学ぶ。1984年には「女性と図書館・ネットワーク」(FLINT)を立ち上げ2002年の解散まで活動。1984年、日本図書館協会全国図書館大会で、「インフォーメーション・スペシャリストとしての情報サービスの提供と、関西地区の図書館間交流の推進」を表彰される。
 1983年63歳の時に、定年後の生活を求めて、ボストンで「エルダーホステル」(高齢者対象の生涯学習プログラム)を体験。ビル・バークレー会長を訪ね、いきいきとした受講者の姿を見聞。この体験から定年後の「夢」が膨らみ、70歳定年を早めて退職。新大阪駅近くのマンションに拠点を構える。1986年アメリカ人高齢者70名を受け入れて、日本学講座を始めたのをスタートに、4,000人を超えるアメリカ人受講生を受け入れてきた。1988年には日本の国内講座「世界の中の日本」を立ち上げ、アメリカの大学で日本人が学ぶ3週間のプログラムも開催し、40名が参加。
 2000年には法人化して、「特定非営利活動法人 エルダーホステル協会」に発展。
常に自己を高める研鑽のバイタリティーに魅せられる。1997年、大阪市の「きらめき賞」を受賞。1998年には『大阪おんな自分流』(大阪府男女協働社会づくり財団企画・編集)に、そのインタビューが掲載され、同時にビデオにもおさめられている。
 日野原重明聖路加国際病院理事長が本書の帯に推薦の言葉を贈られている。「・・米寿までの図書館司書のスピリットに染められた長い自分史を書かれた。戦前、戦後の日本や米国の姿を静かに語られる。この自分史の中には時代の直面する話題が巧みに織り込まれている。大正、昭和、平成にわたって生きた女性の筋の通った見識に満ちた本である」 と。 2010年90歳。(伍賀偕子)

 八八歳レイコの軌跡 豊後レイコ著 ドメス出版 2008年 四六判251頁


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