『働きすぎに斃れて 過労死・過労自殺の語る労働史』


 本書は春に頂戴したので正確には「新着図書」とは言えません。ご紹介が遅くなって申し訳ありません。

 著書自らが「渾身の作」と言うように、過労死に斃れた労働者50人以上の事例を丹念に追った労作です。

「過労死・過労自殺の事例研究は結果としてひとつの現代日本労働史の様相を帯びることになる」と著者が語るように、この本は過労死の実態を描くことによって、労働者がいかに労働者になったのか、その心性史をあぶり出すことを目的の一つとします。

 まずは本書の構成を紹介しましょう。なによりも事例研究である本書は、叙述の多くを『日本は幸福(しあわせ)か : 過労死・残された50人の妻たちの手記』(全国過労死を考える家族の会編  教育史料出版会, 1991)に拠っています。裁判になったケースでは判例などの裁判資料、新聞記事、Web上の情報を渉猟し、可能な場合は関係者からの聞き取りも行われています。


 第1章で本書全体の構成を俯瞰したあと、過労死問題の視座を提示し、第2章から第10章は具体的な事例研究に入ります。終章において、過労死を生む企業の責任と、死ぬまで働いてしまう責任感の強い労働者たちの「強制された自主性」について言及すると同時に、そんな労働現場を生む消費者の際限ない要求の強さについても批判の矛先は向かいます。

 当然にも、過労死・過労自殺した本人から話を聞くことはできません。遺族が著した手記をもとに、亡くなる前の本人の足取りを探っていきます。亡くなった人が日記を遺していた場合もあり、個々のケーススタディで描かれる過労死直前の人々の働きぶりには鬼気迫るものがあり、これでもかとばかりに描き出される著者の筆先からは、無念さと共感と同情と怒りがないまぜとなった情感がほとばしっています。労働経済の専門書であるにもかかわらず、この物語に接するとき、思わず落涙してしまったのはわたしだけではないでしょう。

 過労死を生むほどの過酷な労働は企業だけの責任ではなく、消費者たるわたしたちの「より速く、より便利に、よりコンパクトに」といったわがままな要求がその一端を担っているのではないでしょうか。熊沢氏が「製品やサービスの供給者へのしかるべき批判は、同時に、その供給を労働現場で支える労働者の状況への洞察を求められるのだ。その洞察なくしては、市民は客観的には、労働者の働きすぎや低賃金への無意識の支持者に堕するともいえよう」(p373)と語るとき、本書がただいたずらに企業責任を他罰的に求めているのではなく、消費者=読者自らの(その中には筆者自身も含まれるでしょう)責任と自省を問うていることを忘れてはならないと思います。

 現代文明は、ひたすら快を求め苦を避ける方向へと進んでいます。それを哲学者の森岡正博さんが「無痛文明」と名付けたことを、本書のこのくだりで想起しました(『無痛文明論』2003年)。文明がこの方向に進む一方であるならば、消費者の恐るべき増長によって(モンスターペアレントしかり、クレーマーしかり)、労働環境は劣悪化の一途をたどるでしょう。それは企業が「自由な競争」によってサービスの向上を目指し、消費者をさらに増長させ、労働者を疲弊させる、悪循環の泥沼です。モンスターペアレントクレーマーのように自我の肥大化が起こっている現在、いっぽうでは職場のなかでも自我を肥大させた労働者がメンタル・クライシスに陥る例も指摘されています(大野正和自己愛(わがまま)化する仕事』2010年)。


 閑話休題
 本書は文明論について深入りするものではなく、また、鬱状態になる労働者の「自己責任」を云々するものでもありません。むしろ、労働組合など職場の自立的集団的な連帯の力によって事態を打開すべきであるのに、労働組合が企業と一体となって労災隠しを行うなど、職場での<働きすぎを規制する機能>が不全に陥っていることが過労死を増やす一因だとして、指摘されています(もちろん、労働組合が労災認定に力を尽くた例も挙げられています)。
 近年、人事管理が<個人処遇>へと変化していますが、労働組合は組合員全体のベースアップや労働条件改善のような集団的労使関係には取り組んでも、労働者個々人の処遇についてはタッチしません。「組合は総じて個人の受難に寄り添うことをやめている」(p361)という状況のなかで、過労死・過労自殺が個人の受難として表出してきているのです。

 本書はまた、責任感のつよい現場の責任者や、仕事に自己実現をかける専門職、ノルマに追い立てられる中間管理職、低賃金を埋め合わせるべく働きすぎるトラックやタクシーの運転手たち、彼らが企業・組織の要請に過剰に応えて働きすぎてしまう心性もつぶさに追っています。

 このように本書は、過労死を生む土壌をさまざまな角度からとらえています。そして巻末に、「過労死・過労自殺の労働者像」という節を措き、日本の労働者像について総括します。この意味で本書は著者の『日本の労働者像』(1981年。新編1993年)の続編として位置づけられています。
 『新編日本の労働者像』は、農村から都市に流入した日本近代草創期の労働者たちがいかにして会社人間になっていったかを、胸のすくような論理展開と見事な筆致で描いた名著です。著者は『働きすぎに斃れて』のなかで次のように述べています。

日本の労働者はこれまでのところ、「会社の仕事のため」ということと「自分の生活のため」ということをひっきょう峻別できない人びとであった。私は拙著『日本の労働者像』において、この峻別ができるような組織労働者像に労働者が「離陸」できなかったことの失敗の由来を、日本の近代および戦後の労働史の検討を通じてそれなりに探っており、いまその詳細をくりかえすことは控えたい。

 つまり、『働きすぎに斃れて』をより深く理解するためには、『新編日本の労働者像』が必読の書であるといえます。

働きすぎに斃れた人びとは、「会社のため」「仕事のため」「自分のため」「家族のため」といういくつもの思いを分かつことができずに抱え込む、日本の労働者の共有するしがらみに閉じ込められて生き、その無理を背負って死んだのである。(p368)

 ではそのしがらみに囚えられた人々が、どうすればしがらみを断ち切ることができるのでしょうか。

 いま私には、周到な発想をもってこの問いに対する十分の回答を用意する余力はない。しかし、旧著での表現を借りてさしあたり一歩だけ具体化するならば、形成されるべき労働者像はおそらく、価値意識としては、自分にとってかけがえのないないかに執着する「個人主義」を護持しながら、生活を守る方途としては、競争のなかの個人的成功よりは社会保障の充実や労働運動の強化を重視する「集団主義」による――そうした生きざまの人間像であろう。(p370-371)

 処方箋を書くのはたいへん困難なことでしょう。というのも、ことは労働現場だけの問題ではないからです。また、著者がいうところの「集団主義」による解決の道というのも、そう簡単なことではないと思われます。というのも、その「集団主義」になじまない人々が今、増えていて、集団主義じたいがそういう人々を疎外している実態をわたしたちはいくらでも知っているからです。集団主義個人主義か、という二者択一ではなく(著者も決して二者択一論を述べているわけではありません)、複雑さを増す現実に柔軟に対応しつつ、「いま、目の前にいる<仲間>を助けることが自分自身をも助けることになる」と気づくことが第一歩ではないでしょうか。

 過労死という過酷な現実を直視し、その病理的な労働実態を分析することによって「過労死・過労自殺の語る労働史」を描こうとする著者の試みは、本書だけでは完結しません。読者のみなさんには、ぜひ『新編日本の労働者像』を読まれることをお勧めします。両書を通読することによって、著者が描く「日本の労働史」像が生き生きと立ち上がってきます。そして、歴史を振り返り、歴史から学ぶことにより、わたしたちは過労死を生むような日本の労働現場のありかたを変えていく手がかりを得るのではないでしょうか。
 鎮魂の書たる本書を読む人々が、亡くなったかたたちの働き方を顧みて我が身を振り返り、自分もまた過労死戦線に立つ一人であることを自覚すれば、少しでも変革への道は拓かれるかもしれません。著者からのそのような強いメッセージを受け止めました。(谷合佳代子)

 著者、熊沢誠氏のWebサイト http://www.kumazawamakoto.com/

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