「蒼茫 追想 鈴木祥蔵先生」

 本書は、2009年7月に90歳で逝去された、鈴木祥蔵・関大文学部名誉教授を偲んで、わずか2ヵ月で編集され、10月3日関大千里山キャンパスで催された「追悼の集い」で配布された。故人は関西大学で40年近く勤務して数々の業績を残した研究者で、著書も膨大であるが、常に平和と人権をめざす多くの運動と共にあって、思想的理論的影響力を発揮した著名な思想家である。
 追悼文は、関大関係者を中心に23名によるが、関大での功績だけでなく、幅広い社会運動での貢献や深い思想、「泰然自若」の人となりが浮かび上がる編集となっており、100頁に及ぶ。いずれ、その幅広い社会的功績は、多くの顕彰がなされるだろうが、逝去2ヶ月後という短期間に、戦後民主主義教育における「鈴木教育学」を貫く深い思想とその幅広い影響を凝縮した書が編纂可能になるということに、故人と強く結ばれた人々との「絆」に畏敬の念を抱く。その人柄も彷彿と浮かび上がり、豊かな心が伝わる。

 本書は市販されていないため広範な人たちが触れる機会が少ないので、「追悼の集い」で配られた栞と「鈴木祥蔵先生の遺志を継ぐということ」(筆者=玉田勝郎)とあわせて、エル・ライブラリーで閲覧されたい。
以下、執筆者の人たちが述べる「追想」から、足跡を要約する。
 1919(大正8)年宮城県白石市に生まれる。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒業後、大学院の途中で兵役、中国戦線へ出征、1945年8月敗戦後シベリアのラーゲル(捕虜収容所)に3年間抑留される。ここで刻み付けられた痛苦な体験と収容所内闘争が、戦争がもたらした何千万人もの人々の「『悲憤の山脈(やまなみ)』の裾野に立つ」という、その後の「研究や活動の原点になっていた」(鈴木昭子夫人、田中欣和、玉田勝郎、堀正嗣、記)。
 1949年京都大学大学院へ復学し、1950年関西大学専任講師就任以来、1989年定年退職まで勤める。関大内での業績は、1967年、教育学と心理学の連携という理念のもとに「教育学科」を設立して、教育学を総合的で実践的な学問にするべく力を注ぎ、1974年には全学的規模で「関西大学部落問題研究室」(85年「人権問題研究室」に改組)を設立して、初代室長に就任したのをはじめ、寄せられた追悼文から、その行跡と影響力の深さがうかがい知れる。
 また、戦後の教職員組合運動、部落解放教育・保育運動、幼児教育や美術教育の実践などに深い影響を残した。とりわけ、1977年「社団法人 乳幼児発達研究所」(後に「子ども情報研究センター」に改称)を創立して、初代から2000年まで所長を務め、1992年には「大阪同和保育研究協議会」の会長に就任、差別に負けない民主的な感性を育てる「共同子育て」運動を地域に広げるなど、次代を担う多くの人材を育成した。
「鈴木教育学」の骨格を玉田勝郎が、以下のように述べている。
 (1)人権教育論;「同和教育」を国際人権の概念・思想を基軸にして批判し、「解放教育」として再定義/(2)保育論;「自然成長論の克服」の力説/(3)学び論;被差別(被抑圧)状況を生きる人々・青少年の「生きた経験」(物語り、識字,綴り方)と訴え(願い)をベースに、優れた文学・芸術作品を媒介にした深い学びの追求(本当の学びは、「学び手自身が変わることである」という学び観)/(4)学力論;「競争の学力」を批判し、「解放の学力」を。被差別者の抵抗感覚を育み、自らの立場を自覚し、それを共感・共有する仲間、「集団性」のなかでこそ学習意欲を引き出し「学ぶ力」を高める/(5)教師論;保育者や教師自身が反差別―人権を核とする思想性を内側から生み出していく「主体的自己変革者」を志向することで、人々との開かれた連帯・協同の関係を成立/(6)共同子育て論;解放教育(保育)の中で模索され、実践されてきた<共同子育て>の概念と社会性を地域コミュニティへと開き拡張していく先駆的提唱。

 いつも引用するルイ・アラゴンの詩に鈴木祥蔵が1行加えた3行詩=「学ぶとは誠実を胸に刻むこと。教えるとは共に希望を語ること。研究とは事実に即して自己を変革することである」という鈴木語録を心に刻んだ人々は数知れず、この追悼集にも何人かが自分自身の「座右の銘」と述べている。(伍賀偕子)

「蒼茫 追想 鈴木祥蔵先生」(『書評』第132号所収/2009秋)関大生協『書評』編集委員会/A6判58頁)

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