関 久子

 今回は、関久子の生前に編まれた伝記と死後のもの、2冊の小冊子を紹介する。
 関久子:1901年和歌山県に生まれ、1996年94歳で逝去。本名=尾崎くに


★『大老女 関久子さん(伊藤えり子/私家版/1996年)
 大阪府の北端にある能勢町の「野草園」の世話をしてきた関久子から、薬草の知識も含めて野草園を引き継いだ45歳の伊藤えり子が、最期の息遣いまで見つめて、関の全生涯を貫く思想・地球観・世界観を描いた。題名の「大老女」は、カナダ先住民の作家アン・キャメロン著『銅色の女の娘たち』に登場する、太古の知恵を子孫に伝える力強い老女を意味する。同題のビデオも作成されている。
 関の社会運動の歩みは、彼女が講演の中で自らを語ったものが掲載されている。戦前は小学校教員として働き、戦後「大阪教育労働組合(教労)」の結成に参画して初代婦人部長となる。その結成大会で女ひとり発言し、「同一労働同一賃金」のスローガン欠如を指摘し、委員長が謝罪して方針案が補強され、府庁交渉へ。さらに大阪の労組・婦人団体による「勤労婦人連盟」(略称「勤婦連」36組合参加)を結成して初代委員長になり、労働運動に打ち込んだ。1947年の歴史的な2・1スト時の高揚と中止の悔しい想いの話は、臨場感あふれる。1951年には婦人民主クラブ大阪支部の結成に参画。
 1970年〜77年には、能勢ナイキ基地反対闘争に傾注。村の農民への働きかけは生半可な関わりでは信頼されない、毎日曜日通いつめてビラを渡し、話し込む中から信頼を築き、豊中を中心とする地域の民主陣営と繋いでいく。7年頑張って、防衛庁に計画を断念させた。87年からは沖縄の反戦地主会や石垣島の空港建設反対運動に、三里塚闘争に、反核原発運動にアメリカにも行って原住民と交流という具合に、納得がいくまで関わる。
 本書は、「闘士」の先駆的な闘いを追うスタイルではなく、能勢の野草や農耕の中に人類の歴史や原点を見出す彼女の自然観・世界観と生きざまが滲み出る作品となっている。
 
★『関久子とその時代(妹尾源市編/Q社・1997年)
 関久子の没1年後に作成された。戦前の厳しい時代の彼女の軌跡と思想を中心に、妹尾源市・森脇祥子ら比較的年齢が近い人々によって作成された。
 構成は、戦中の1942年から1945年8月15日までの日記が40頁にわたって公開されている。重苦しい時代ではあるが、土や自然との共生観が尋常小学校での子どもたちとの触れ合いの中に生かされ、歌人の心もあふれている。短歌は、1922年(21歳)に若山牧水主催の歌誌『創作』に入会し、1929年(26歳)に「アララギ」入会、土田耕平に師事する。1935年(34歳)頃より「大阪啄木研究会」の人々と交流し、1936年には「啄木没後二十五年講演会」を神戸海員会館で開催する中心的役割を担い、「神戸啄木研究会」を結成し、本誌の編集人妹尾源市と出会がここで生まれる。2・26事件の年に、このような「講演会」が会場あふれる盛況であったことは興味深い。戦後に関久子短歌集がいくつも出されている。短歌集『艸炎』1(1970年)、2(1988年)、『裸木』(1979年)、『椏』(1981年共著)。
 「関久子(本名尾崎くに)の略歴」は、森脇祥子により、1901年から1945年まで詳しく編まれ、関久子の前半の歩みがわかる。21年間の結婚生活の後、42歳で独居生活を始めたこと、共産党入党、3度の検挙、同志的な交友関係等々が読み取れる。
 終章は、3名の思い出から、彼女の人となりが偲ばれる。逝去の前年に出された『大老女 関久子さん』(伊藤えり子)と並べて、戦前戦後を通じての鮮烈な生き様が心を打つ。(伍賀偕子)

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