読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『柴田範幸さん追悼集』

次代を紡ぐ伝記資料紹介

 2009年5月22日の「柴田範幸さんお別れの会」に向けて編纂された追悼集(2009年4月11日逝去)。
 柴田範幸は、1989年連合大阪結成時の初代事務局長、1993年〜95年会長を務めて、連合大阪の礎を築いた功績から、お別れの会実行委員会は、連合大阪、社団法人大阪労働者福祉協議会、情報労連大阪地区協議会、財団法人大阪社会運動協会の4者構成による。
 わが大阪社会運動協会の会長時代には、協会の「将来構想骨格」「大阪社会運動資料センター」構想を提起され、現在の「エル・ライブラリー」にその精神が継承されており、退任後も評議員として、逝去直前まで指導的役割を果たした。

 追悼集は、連合大阪川口清一会長の追悼文で始まり、旧電電公社職員で歴史研究家の久保在久により「巨星墜つ―柴田範幸さんの生涯」として、的確にまとめられている。以下要約。


 1929(昭和4)年10月18日、兵庫県神崎郡甘地村(現市川町)に、職業軍人の長男として出生。姫路中学から陸軍幼年学校に転籍。専門学校を経て、1948年逓信省大阪無線工事局六甲分局に就職。1952年に日本電信電話公社となった当局は、幹部候補生として、柴田を大阪大学工学部に委託生として派遣したが、皮肉にも学生運動が台頭する時代背景の中で、労働運動に踏み出すきっかけとなった。めきめきと頭角を現し、1956年全電通近畿地本執行委員、61年〜66年同中央本部執行委員を務めた。1965年春闘で結成以来初の全員半日ストを決行して、15万5千名の大量処分がくだされ、柴田も解雇された。68年離籍専従が信任され、プロの労働運動家となった。1969年10月静岡県伊豆町に設置された全電通労働学校「団結の家」に、開校と同時に専任講師として派遣され、校風の確立に力を尽くした。
 1972年 電通近畿地本の書記長に就き、コンビを組んだ片山甚市委員長を、74年参議院選挙に当選させ、その最初の秘書を買って出て、2年間に政策活動の典型スタイルを作った。
 1985年日本電信電話公社の民営化により、日本電信電話株式会社(NTT)が誕生、その翌年86年から90年まで、近畿地本委員長として、民営化後の運動の基調を築いた。
 労働戦線の再編統一の流れの中で、1988年2月、連合大阪準備会結成大会が開かれ、柴田が代表世話人となり、同年12月16日民間連合の大阪地方組織結成、翌1989年12月16日官民統一の連合大阪結成大会が開催されて、石原利昭会長・柴田範幸事務局長の「名コンビ」と称された体制がスタートした。93年石原会長の後任として、柴田が会長となるが、95年春の知事選挙の敗北の責任をとって辞任。民間連合準備段階から9年に及ぶ間、連合大阪の礎を築く事業にすべてを傾注したといえる。
 連合大阪会長退任後は、(財)大阪社会運動協会の会長として、協会の将来戦略を考え、「大阪社会運動資料センター」構想を提起した。特に、協会が誇る、明治以来の大阪の産業・労働・社会運動を連綿として集約編纂した『大阪社会労働運動史』の6巻以降の執筆編纂に積極的に関わり、第9巻の「労働組合運動の概観」が遺稿となった。
 常に猛烈な勉強と調査に基づいて練られた戦略が明快で、情熱的な陣頭指揮に多くの人々が畏敬の念をもって共に歩んだ。追悼の言葉は上海市総工会をはじめ、98名から寄せられている。各方面の錚錚たる人々が、深い畏敬の想いを綴っている。
 いつも組織の中心で戦略と方針を提起してきたから、柴田が中心的に執筆編纂した運動史には躍動感が伝わる。『全電通近畿47年の歩み』『同年表・資料集』(1999年1月)、連合大阪結成10周年記念誌『拓く創る』。(伍賀偕子)

<書誌情報>
詳細はタイトルをクリックしてください。
柴田範幸さん追悼集』2009年