『追慕 川本龍子想い出集』

部落解放女性運動のパイオニアであった川本龍子(1915-2006)について、3人の娘が母を追慕する形で1周忌に作成したものである。
川本龍子は1915年11月24日大阪市矢田で生まれ、2006年1月24日90歳で逝去。
40頁にわたる追悼のことばは、部落解放同盟大阪府連を中心に全国のリーダーから寄せられ、厳しいなかにも人々の心を揺り動かしていくリーダーであったこと、そのもとで、多くの女性活動家が育っていったことが伺える。特に川本以降の歴代の婦人部長や女性リーダーの追悼の言葉は、次世代がどのような叱咤や励ましの中で育っていくかがリアルに伝わり、生きた教材のようである。


「私の歩んだ道」は解放運動の節々での本人の自筆で、50頁に及ぶ。その折々に彼女が綴った文章は、差別への憤りとその闘いの過程、初めて運動に参加する者への導きの糸が示されている。
矢田部落で生まれたが、父の出稼ぎに付いて母と東京暮らしをし、母の死去によって部落に帰って叔母と暮らす。部落外の人と恋愛結婚で結ばれたが、夫は戦争復員後四国の松山で病死し、39歳で娘3人を連れて矢田部落に戻る。苦労して子育てしながら、40歳代前半で部落解放運動に目覚め、1958年矢田支部結成に参画し、矢田支部副支部長として、歴史的な「矢田教育差別事件」などをたたかう。
1970年部落解放同盟大阪府連初代婦人部長、女性初の中央執行委員を歴任して、全国の運動をトップに立って指導。府連婦人部長時代には、副部長の大川恵美子(後に部長)・下川文子らとともに、各支部婦人部結成をはじめ組織内でも共闘関係でも、「迫力ある婦人部」の基礎を築いた。1975年部落解放第20回全国婦人集会の兵庫開催時には、中央婦人対策部長として、すべてを女性自らの力で運営しきるレールを敷いた。
命をも奪う結婚差別事件が後を絶たない中で、1975年久世(くぜ)結婚差別事件では、特別弁護人として法廷に立って2時間意見陳述をした。夜を徹して書き上げた陳述書は、彼女自身が述べているように、「私自身の生きてきた証しであり、無言の部落大衆の怒りと悔しさそのもの」であって、「私の宝物」ですと。本書にも全文が収録されているが、部落解放運動の血の滲む歴史からひも解き、社会意識としての結婚差別事件の本質をつき、「裁かれるべきは部落差別を放置してきた国」であり、「差別から司法的に救済する立法措置」を訴えた、怒りがほとばしる心に迫る陳述書である。部落解放運動と同和行政つぶしの攻勢が吹き荒れる今こそ、学び共有しあいたい。
後半15頁の「母と共に」は、母の背中を見て育った娘たちの心に深く刻まれた生きざまが、人としての尊厳を貫ける介護に向かわせた記録である。
61歳から矢田支部に戻って世話役活動を担い、6年間は部落解放矢田老人会会長を務める。77歳で脳卒中に倒れ、運動の第一線を退く。90歳まで、娘3人とその家族に囲まれて静かな余生を送る。筆者も、気丈で凛としていた彼女と接していただけに、自分の意志で自由に動き話すことができなくなって、「体力の続く限り解放運動を!」の願いが果たせなくなった無念さをおもんばかる。しかし、晩年13年間の娘たちの記録は、介護日誌というより、「母との絆を深めるかけがえのない時間だった。母のがんばる姿にどれほど希望と勇気を与えられたことか。母の笑顔にどれほど癒されたことか」と結ばれ、読む者の心を打つ。(伍賀偕子)

<書誌情報>

追慕:川本龍子想い出集(川本千代子,川本由美子,吉川三代子[著] 私家版 2007年

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