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『岡田良子さんを偲ぶ』

 大阪総評婦人部長・婦人協議長を10年近く務めた(1964年−1972年)岡田良子を偲ぶ集い(1982年8月12日)の直後に出された追悼集(1982年9月)。
 葬儀での弔辞(伍賀偕子起草)が盟友の遠藤幸子による墨の香りが伝わるような美しい浄書のまま10頁にわたって収録され、偲ぶ集いの参列者130名の追悼の言葉一つ一つが故人の人となりと指導者像を浮彫りにしている。
 岡田良子は1925年大阪市大正区で誕生。1948年大正中央中学校の理数科教諭をスタートに、文の里中学、市岡中学に赴任し、定年時は東大阪市立俊徳中学校教諭。1959年大阪市中学校教職組合婦人部長をスタートに、大阪教職員組合の専従執行委員として、調査部・組織部・婦人部を担当。
 中川督之助・元大阪教職員組合書記長の追悼文が語る彼女の行跡によれば、日教組の育児休職と休日日直廃止の制度化をめざした調査では、「調査こそ闘いの基礎」を粘り強く実践し、特に、復帰前の沖縄・九州の炭鉱・部落からの中卒・集団就職の子どもたちの追跡と疎外の実態調査を行って、少年少女から慕われ、「労働運動の心」を示したと。
 1964年〜1972年大阪総評婦人部長・婦人協議長を務め、政党系列化の激しい中、総評婦人運動の結束と幅広い女性組織との共同行動を誠実に追求しつつ、全国に大阪総評婦人運動の名を馳せた。収録された大阪総評議長・中江平次郎氏の追悼集会での挨拶は、「岡田さんは、政党系列に支配されない大衆運動の『統一』を主張して持ち前の強い信念でもって、まとめきりました。いわば大阪総評婦人協の活動の基礎を彼女がつくったということです。労働運動や平和運動の分岐が激しい現在も、婦人協は、婦人運動の立場から一致できる点をねばり強く追求して、いくつかの成果をあげています。(略)岡田さんの、大衆運動の原則を頑として守りきるあのスタイルを広げていくべきだとおもっている次第です。(略)あなたが残した功績は必ず引きつがれていくことでしょう」と結んでいる。
 私事ながら、筆者も岡田・大阪総評婦人部長の2年目に大阪総評オルグに就職し、生家がすぐ側で同じ小学校卒業という縁で親近感を抱かれ、以降の大阪総評婦人運動の中で「共に」歩み、ご逝去の直前、生家にもどっての闘病中まで、その厚誼にあずかった。忘れることのできないご縁で、収録されている「弔辞」を起草することになった次第である。
 多くの後輩教職員への組合運動継承の手紙もいくつか収録されており、運動の継承を意識した丁寧な年譜も含めて、終生運動の指導者であったことが示されている。
 また、追悼の言葉が幅広い分野から寄せられていることは、彼女を代表とする大阪総評婦人運動のネットワークの広さを如実に語っているのではないだろうか。
 退職後、乳幼児発達研究所(現在の「子ども情報研究センター」)の事務局長に就任し、関西女の労働問題研究会の活動にもと、じっくり構えかけたが、1年余に逝去(1982年8月56歳)。
 掲載されている「偲ぶ集い」の写真から、舞台は、幾何の教師で折り紙に堪能だった故人にちなんで折り紙で飾られ、参列者一人一人が折鶴を折ってお別れをするという、手作りの集いの模様がうかがえる。(伍賀偕子)

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