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『遠藤幸子さんを偲ぶ会』

次代を紡ぐ伝記資料紹介

(遠藤幸子さんを偲ぶ会実行委員会/私家版/2004年)
 2004年12月の1周忌に催された「偲ぶ会」の栞。栞自体はB4判4頁の簡単なものだが、彼女を敬愛する仲間たちからの追悼の言葉が何枚か追加されて当日配布。
 1926(大正15)年3月大阪市大正区で出生、2003(平成15)年12月76歳で逝去。1944年鶴町小学校を振り出しに、1978年まで小学校教諭を務める。1946年妊娠・出産でいったん退職し、3年後復職(この退職中の経験が後の育児休暇要求につながった)。早くから大阪市職員組合本部・支部役員を歴任し、勤評闘争などを担う。
 1965年〜1966年大阪教職員組合婦人部長を務め、産休補助教員法など女性教職員が働き続けられる諸条件獲得、ベトナム反戦闘争などに奮闘。特に育児休業制度要求を日教組本部に早くから提起し、1966年の日教組大会で要求が決定されて、大阪からその運動を牽引した。大阪府職員組合の山口成幸委員の弔辞は「育児休業制度の生みの親、遠藤幸子さん」と題している。
 彼女を“名物教員”にしたのは、「産休(産前産後休暇)プール制度」の提唱と、「産休渡り鳥教員」である。出産休暇があっても、代替教員が来ないと、実際には子どもたちを放置したまま休めないから、出産直前まで職場に出ており、当時の日教組婦人部調査では、異常出産が34%という驚く結果が示されていた中で、ようやく運動の力で産休補助教員法を獲得。しかし、身分不安定な臨時採用の講師で代替を確保するのでは、しわ寄せがそこにいくということで、一部を定数内で確保するという改善をさせたが、今度は新任ばかりをそれにあてるというのではいけない、経験のある教員こそが代替教員を担おうと、「産休プール制度」を提唱し、真っ先に「産休渡り鳥教員」となって各学校に赴任し、行く先々で、組合運動強化と男性も含めて活動家に深い影響を与えた。弔辞の中で山口委員長も、彼の初の赴任校であった生江小学校で、“伝説の人”である彼女に出会い、強烈な印象を抱いたと述べている。彼女を慕う同僚・後輩が、実行委員会作成の栞以外にも心のこもった追悼の言葉を寄せており、バラバラに散逸させないよう、エル・ライブラリーで保存している。多くの人が、集会やデモで、迫力ある彼女の声と言葉や歌に勇気付けられたことを忘れない ――と。
 教育内容でも先進的な役割を果たし、追悼の栞には次のように紹介されている。

解放教育運動にも渾身の力を注がれ、部落・「障害」者・在日朝鮮人問題と、その活動は多岐にわたりました。とりわけ『いのちありがとう〜性(生)教育実践』の発刊は、性教育を人権教育として位置づけ、その実践に大きな役割を果たされました。その他絵本の刊行など、執筆活動にも励み、さらに講演活動で多くの多くの後輩を育てられました。

 栞の表紙は、『赤ちゃんバンザイ』『あそぼうよ』『おれんさま』をはじめ6冊の絵本(遠藤幸子著)の表紙で飾られている。
 働き続けられる職場づくりを率先して牽引してきた彼女も、定年までは働けず、腎臓結石を患い、53歳で退職せざるを得なかった。現場教員と出産・育児、組合運動を並行して進めることは激務だったのだと思う。退職後は、性教育や人権教育のテキストや絵本を出版したり、大学(天理大学帝塚山大学奈良県立大学)での人権講座をはじめ、各地でマイノリティーの側に立った講演活動を展開した。
 同時に、大阪退職婦人教職員連絡協議会の運動でも影響力を発揮し、現職との連携に力を注ぎ、仲間から多くの女性議員を送り出すために「一日10円の会」を提唱すると共に、街頭演説に自ら率先して立ち、ユニークで迫力あるスピーチは多くの人々の記憶に鮮烈である。在住の奈良でも、夜間中学設立や奈良女性解放共闘結成に尽力し、「今政治を変えよう、奈良一日10円の会」を結成した。(伍賀偕子)
<書誌情報>
遠藤幸子さんを偲ぶ会
<エル・ライブラリーが所蔵する関連資料>
次代を紡ぐ 関西女の労働問題研究会編・著