井口容子『野あざみのように』

(NPO法人情報ネット・ワークス出版プロジェクト編/私家版/2006年)

 摂津市立女性センター・ウィズせっつ(現・男女共同参画センター)で活動するグループである「NPO法人情報ネット・ワークス」が、井口容子初代館長をインタビューして4年がかりで編纂し、第二部に著述や講演記録と年表を収録。彼女の短歌も多く登場し、当時の気持ちが伝わる。
 大阪府立婦人会館館長や大阪府企画部婦人政策課長など、大阪府庁の女性管理職の先駆けの役割を果たし、退職後も、宝塚市と摂津の女性センター初代館長を務めているが、その前半は府職員組合執行委員・婦人部長や大阪総評婦人部長など組合運動の中で自己を確立した。「組合との出会いがなければ違う生き方になっていたかもしれない」と語っている。
 1931年1月大阪市港区で6人兄弟の長女として出生、2008年9月吹田市で逝去。
 女学校2年の時に、学徒動員により毛布工場で働いたが、ここでの労働現場の不平等に対して社会の矛盾を感じた。また、父の出征中逞しく子供たちを守って生き抜いていた母が、敗戦で父が帰ってきた途端、自分では何も考えず行動もしない人に戻ってしまったのを見て、誰かに頼って生きるしかない日本の女の生き方を「反面教師的に」学んだと。
 1948年大阪府に就職、1953年に組合執行委員として専従婦人部長となった。最初に取り組んだのは、“職場の花”的扱いの女性の位置に対して、「女性を私用につかわないで」と、昼食やタバコ買いをやめさせる運動で、上司にはっきりものを言える関係をつくり、「生理休暇をとることが労働運動の基礎」と主張して、婦人部づくりを進めた。
 1954年、結成して間もない大阪総評婦人部長となり、1958年には、ウィーンで開かれた「第3回世界婦人集会」に参加して、世界に大きく目を開かされた。
 娘を出産した時、「子どもができても組合運動をやるのはかわいそう」と出身支部の推薦が得られずに、職場復帰した。夫も含めて周囲の“男性的発想”に、一時母乳が出なくなったことも。二人目の出産も含めて、仕事を続けながらの育児には、“給料の半分ぐらいを使って”二重三重の綱渡りでしのいだ。
 意に反して組合運動から退いて職場復帰し、統計課や青少年対策課などの仕事につく中で、当時始まった係長試験を受けて、初めて女性初級管理職2人が誕生し、彼女は「青少年対策課主査」となり、「女性管理職の先駆け」の道を歩むことになった。―「五三歳の転勤なりせば平等の証しとなりて生きんとぞ思う」「矛盾多き創造の中に身をおきて草分けの道われも踏みゆく」― 彼女の決意がひしひしと伝わる。
 1980年国連婦人の十年の中間年に、大阪府婦人会館業務課長として赴任(館長・副館長は男性)。常勤館長となって予算も獲得し、「これまでの趣味・教養講座から女性問題など女性の新しい生き方をめざす女性センターへの方向づけを行った」。1984年、大阪府企画部2代目の婦人政策課長と85年の第3回世界女性会議(ナイロビ)に大阪府からの派遣団を組織し、現地での独自のワークショップ「女性と労働」も開催した。国連婦人の十年の高揚を受けて日本でも地方自治体の新たな婦人行政が始まったが、彼女はそのパイオニアとして、大阪府の「女性行動計画」づくり、民間女性団体と行政との「協働」スタイル創出や、市町村の婦人行政への影響力発揮で、存分の力量を発揮した。特に婦人政策課主催の婦人会館で開催された「アドバイザー養成講座」は、1期40回にわたるカリキュラム(定員60名)で、6期の間に養成されたアドバイザーたちが各地の女性運動の核となり推進者となっていき、井口は彼女たちを繋ぎ、働く場を創り出すオルガナイザーだった。
 1989年大阪府を退職後すぐに、その功績を買われて、宝塚市立女性センターの初代館長に赴任し、その基礎を築いた。さらに1998年、摂津市立女性センター・ウィズせっつにも初代館長として迎えられ、3年後の退職まで、意欲的なリーダーシップのもとに二つのNPO法人も生まれた。本書もここでの情報グループがNPO化しての取組み成果である。
 巻頭の言葉に、林郁(消費者問題研究者)は、同時代を生きた友を、「時代のうねりの中で生きてきた一人の女性」と題して、「類まれな勉強家」として「三池争議を理論的に指導した向坂逸郎山川菊栄たちに私淑した」と紹介し、「私の前に道はなく私の後ろに道は作られる」が彼女の「知と熱の原動力である」と述べている。(伍賀偕子)
<書誌情報>
野あざみのように [情報ネット・ワークス]

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