「ようっ、がんばりや!岡田義雄さんを偲ぶ」

 (岡田義雄さんを偲ぶ会実行委員会編/私家版/2003年)

 総評大阪地評弁護団、大阪労働者弁護団の創設者として、労働運動や平和と民主主義を求める社会運動と共に歩んだ弁護士の追悼集で、A4判80頁に及ぶ広範な人々の「偲ぶ言葉」に、多くの豊かな出会いとエピソードが組み込まれ、行跡を讃えるにとどまらない、人間岡田義雄像が浮かび上がる。
 「大阪のローベン」「岡弁」の名で著名なパイオニアだが、「全大阪反戦青年委員会」議長としても、知る人ぞ知るユニークな肩書きで、本人もそれを誇りにしていた。
 1925年大阪市北区曽根崎に出生、生粋の大阪の「町っ子」、2002年8月77歳で逝去。
 弁護士登録は1960年だが、敗戦直後の混乱期の大阪でいち早く結成された、人権擁護の弁護士団体「関西自由弁護士団」の中心人物であった菅原昌人の事務所で、1946年から、レッドパージ期の弁護士活動、民主法律協会結成と、まさに片腕として21歳から活躍。
 この間、終始反権力の姿勢を貫き、労働者・農民・学生の権利擁護に走り回り、総評弁護団全逓弁護団自治労弁護団に所属し、全国金属大阪地本法律顧問なども務め、大阪弁護士会では約20年間人権擁護委員会に所属した。
岡本知明・旧大阪総評議長が「岡弁の愛称で慕われた庶民派弁護士」と題しているように、追悼集に寄せられた多くの労働運動リーダーが、ストライキ反戦闘争で“パクられた”場面でお世話になった謝辞だけでなく、反権力の生きざまを自らの中に形成していく過程に「岡弁」の存在があったことを、リアルに生き生きと語っている。とりわけ自称「権利の全逓」が誇る、歴史的にも先駆的な東京中郵事件判決(刑事罰からの解放)と並んで同時期に、全逓の権利闘争の橋頭堡を築いた大阪中郵事件で菅原昌人と共に重要な役割を果たしただけに、全逓のリーダーらが多数寄せている追悼文は、人間「岡弁」との出会いを語っている。民間労働運動や争議の中での出会いを語る人々からも、法律の専門家だけでなく、組合員の意識や争議全体の展望を踏まえての「岡弁」のイニシアティブが伺える。
 後半20頁に、本人執筆の「戦後大阪における労働弁護士の諸活動を概観する」(『大阪社会労働運動史』(財)社会運動協会発行/第4、5、6巻より)が転載され、歴史的資料として極めて貴重である。弁護士活動は個人稼業に負う部分が多く、ましてや労働者農民運動と共に歩んできた先輩弁護士らの反権力の気風と、大衆運動の発展に献身する精神を次世代に継承する作業は稀有に等しく、総評大阪地評弁護団・大阪労働者弁護団の創設者としての功績と共に、この運動史は、全国的にも大阪の誇るべき財産である。
 追悼集後半に収録されている、同僚・後輩弁護士の偲ぶ言葉の端々から、そして何よりも「大阪労働者弁護団」活動の軌跡と今後の展望も含めて、この精神が確実に「継承」されていることが伝わる。いくつかを引用すると

  • 「岡田節、いわゆる法廷用語ではなく、自然な日常会話スタイルの尋問方法であり、随所に自在な大阪弁が生きていた。裁判官もその会話空間にハマってしまい・・」(藤田一郎)
  • 「弁護士はやっぱり“怒り”が基本やで。理屈はその後や!」(在間秀和)
  • 「そんな難しい顔したらあかんがな、相手がもの喋られへんがな、『ニコ』と笑って」と天国から言われているような(桜井健雄)
  • 「また今度一緒に事件やってな。いろいろ教えてな。世話になるで、頼むで」大先生から駆け出しの私に・・本当にびっくりし、感動しました(平方かおる)
  • 若い弁護士からの要望もあり、岡田先生の話を聞く会を企画しました。入院で実現しなかったことが私の心残りです。大阪労働者弁護団は団員数も賛助団体の数も確実に増え、その活動は大阪のみならず、全国的にも注目されています。労働者と共に生きる私たちの活動をどうか優しく見守ってください(上原康夫)等々。

 6〜7年間岡田事務所の“イソ弁”だった武村二三夫と冠木克彦も、「はじめに」と「編集後記」を執筆し、「偲ぶ会実行委員会」の要を担い、「継承」発展を誓っている。「河上肇先生を慕い、悩みがある時は、京都法然院の墓に参った」(武村)、「全大阪反戦青年委員会議長として、ベトナム反戦・日韓条約反対闘争の先頭に、・・戦争に対する激しい憎悪をむきだしに」(冠木)と。「岡弁」の人間的魅力あふれる記述は尽きず、表題の「ようっ、がんばりや!」に励まされた人々は数知れず、筆者もその一人である。(伍賀偕子)
<書誌情報>ようっ、がんばりや! 岡田義雄さんを偲ぶ会実行委員会 , 2003 ,
<エル・ライブラリーが所蔵する関連資料>