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『群雀 特集号 片山甚市遺稿集』

全電通近畿文芸連盟=旧称編/1999年私家版/A6版56頁)

 片山甚市の逝去に際し(1999年6月27日)、全電通近畿文芸連盟機関誌『葦笛のひろば』に片山が寄稿した作品をまとめ、2ヵ月後の8月15日に、「遺稿集」として発行されたもの(発行責任者=大田修、編集責任者=井上泰行)。
 『群雀』は、組合の組織方針からフリーに多くの表現活動を求めて、補助誌として自主的に並行して発刊されていた。したがって、この特集も、組合発行ではなく、人間片山甚市に魅せられた同人誌の仲間たちによっての、迅速な発行である(なお、全電通近畿文芸連盟は、組織再編で全電通近畿地方本部が解散し、組合からの補助金が出なくなって、任意の文芸サークルとして再スタートした際に、誌名も『竹の花』と改称された)。
 巻末の「略歴」によれば、1923 (大正12)年1月31日、徳島県阿南市生まれ。1940年大阪逓信講習所普通科卒。1943(昭和18)年中国漢口で現地召集され、1946年復員。大阪中央電報局(中電)に復職して、労働運動に入る。その後、全電通近畿地本委員長、本部副委員長など歴任、行動派“片甚(カタジン)”フアンは多い。その間、供血制度や、「愛の家」(組合が設立した重度心身障害児施設)創設に関わり、福祉問題等に多大の貢献をなす。片山が最初に従事した“中電”労働運動では、続いて、山岸章(後に連合会長)、岡本知明(後に大阪総評議長)をはじめ、多くの労働運動家を輩出する土壌を耕した。1974年推されて参議院議員を2期務める。
 巻頭の、全電通近畿文芸連盟(旧称)会長の大田修氏による追悼文「悲しみの中、とり急いでのはなむけとして捧げる」は、“直言と実行”の「片甚」「甚さん」の人となりとその魅力を彷彿とさせる。「甚さんが東京から帰ってきてるで」の一言で多くの人が集まった。労働組合運動で軽視されがちな文化活動を重視し、『葦笛のひろば』の合宿や合評会にも忙しいなかをぬって参加し、世を徹して話し合ったと。また、「毒舌の下で意見の違いを超えて、運動のなかで行き過ぎの行為のあった青年組合員を、会社・権力からの攻撃に出来る限り庇っておられた」、「単純な共産党嫌いではなく、正しい意見は積極的に取り上げ、中央本部役員に共産党員の役員を推薦しようとさえされていたこともありました。共産党の独善と官僚主義・引き回し対して一貫して攻撃されていたのでしたね」と。
 作品は、『葦笛のひろば』第1集(1983年)から第12集(1994年)まで、12作品が掲載されている。殆ど毎号の寄稿は、この文芸活動を重視していたことの表れと言えよう。「戦争に反対する立場から」では、自らの従軍体験が記述され、その体験から発せられる戦争と平和に関わる主張であり、「ポツダム宣言平和運動」「平和憲法の実践とPKOの軍事力」等、アジテーションではなく、自らの生き方に裏打ちされた説得性が読む者を惹きつける。この特集の副題となっている「今をみつめる」は、1990年の執筆ですでに参議院議員を退いている時期だが、日本の今をグローバルにそしてアジアの一員としての視点から捉え、国の進路と労働運動の基本姿勢を鋭く問うており、20年後の現在にも通じる。1994年の「変貌と本質」も同様であり、特に労働組合運動にかける熱い想いが伝わる。
 晩年難病とのたたかいの中での、夢の幻覚体験の記述「夢の夢(パーキンソン病患者のみた)」は、病をおしても表現してやまない表現者の強靭な精神が伺われて、壮絶である。
 主な著書としては『ケネディ暗殺直後』(三一書房)、『労働組合実践ノート』『ストライキ論』『日本の梯梧』(労働調査研究所)、『労働運動の革新』(新時代社)、『電電公社の昨日と明日』(開発社)、『高度情報化社会と参議院』(晩稲社)、『四季のたより』(原多印刷)等がある。(伍賀偕子)

<書誌情報>片山甚市遺稿特集号(群雀)

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