読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『岡本知明さん追悼集』

次代を紡ぐ伝記資料紹介

(偲ぶ会実行委員会編/2009年私家版/A6版82頁)

 2009年3月4日の「岡本知明さんを偲ぶ会」に向けて編纂された追悼集。2008年11月25日逝去。
 実行委員会は社団法人大阪労働者福祉協議会、情報労連NTT労組大阪総支部、財団法人大阪社会運動協会の3者構成による。
 岡本知明は、1975年から1989年総評解散まで大阪総評の事務局長・議長を歴任。追悼集は、「岡本知明 労働運動一筋の人生」という生涯の「概略」と、91名の偲ぶ言葉で綴られている。1929(昭和4年)6月18日、愛媛県の余土村(現松山市)生まれ。旧姓は忽那(くつな)といい、1954年結婚を機に岡本と改めた。忽那水軍の末裔であろうと記述されている(本書に文責の明記はないが、この「概略」は、同じ旧電電職員で歴史研究家の久保在久による)。


 1944年旧海軍防府通信隊に入隊。1949年大阪中央電報局(中電)に就職。1951年中電電話託送課支部委員をスタートに、一生を労働運動に捧げることになる。この1951年2月は、後に岡本が議長となる大阪総評が結成された年である。ちなみに、この“中電労働運動”は、岡本のほかに、片山甚市・山岸章ら、多くの労働運動家を輩出したことでも知られている。1962年全電通近畿地本執行委員を経て、63年古巣の電信支部長として復帰。1966年公労協・交運統一ストライキに際し、国鉄環状線玉造駅で、スト破りを試みた国鉄運転手の説得にあたった全電通の応援部隊に警官が襲いかかり、岡本ほか16名が逮捕され、4名が起訴された。いわゆる「玉造事件」である。一審判決で無罪を獲得するも、高裁で逆転有罪となり、最高裁をめぐる当時の力関係から判断して、10年にわたる闘争に終止符を打ち、上告を断念した。この拘留中に、「仲間が坊主(9歳)を金魚すくいに連れていってくれたのが忘れられない」というエピソードが追悼文の中に紹介されている。
 1968年、企業離籍が信任されてプロの労働運動家となった。1975年総評大阪地評の事務局次長、76年事務局長、84年議長に就任し、全大阪、近畿、総評運動全体の指導者となる。大阪総評が中軸となって1977年に大阪府救急医療条例制定直接請求署名運動を展開し、43万を上回る直接請求署名を集め、大阪府の救急医療体制確立に大きく寄与して、幅広い府民の信頼を築き、労働運動の領域を広げたことも追悼の言葉に出てくる。
 大阪総評退任時に著した『忘れ得ぬ日々』(1989年岡本著)には、1982年第2回国連軍縮特別総会(SSD?)に合わせたNGOの国際共同行動への大阪参加団の行動と、その秋に開催された「反核軍縮平和のための大阪行動(50万人集会)」の模様、そして81年ポーランド自主管理労組「連帯」のワレサ議長歓迎について記されている。大阪城公園に全国から50万人を結集した10.24大阪行動については、「核と差別をなくす女たちの広場、侵略と差別に反対する広場、軍縮と国際連帯、環境破壊、学生、語り部、草の根市民、激しいロックの自由の広場など、それぞれが、それぞれの立場で、しかも意見や主張の違いはあっても、人類破滅への道は談じて許せないという共通の立場から、自らの危機感も自覚して、祈るような気持ちでこの大集会は繰り広げられた」と記述されている。当時の反核運動がいかに国民的広がりをもって高揚していたかがうかがい知れる。
 ほかに、部落解放府民共闘運動を基点とする人権運動の顔の役割も果たした。
退任後は、運動の中から生まれた大阪国際平和センター(ピースおおさか)の理事長を、亡くなるまで19年間務めて重要な役割を果たし、日中、日韓関係の友好運動にもリーダーシップを発揮して、中国や韓国の労働界や民主人士との交流が深かった。
 これらの幅広い持続的な運動を反映して、91名から寄せられた「追悼のことば」は、さまざまな場面を彷彿させ、人間味豊かな人となりが伺えるとともに、貴重な歴史を紡ぐ資料である。(伍賀偕子)

<書誌情報>