読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

近江絹糸人権争議オーラル・ヒストリー (1)(2)

寄贈本紹介 新着図書案内

<エル・ライブラリー 労働史オーラル・ヒストラリー・シリーズ>

近江絹糸人権争議オーラルヒストリー

文化集団・サークル活動と人権争議の関係性を証言

 近江絹糸人権争議は、1950年代の日本を代表する労働争議であり、夏川社長の封建的労務管理に対して、1954年6月から3ヵ月にわたるストライキを経て勝利する。「恋愛の自由」や「信書の開封禁止」にはじまる22項目要求に象徴されるように、「人権争議」と言われ、全繊同盟傘下でたたかわれたが、総評や全国の労働組合や社会団体が全国的に支援した。
 本書は、近江絹糸争議の指導者であり、文化運動の指導者でもあった、(故)辻保治氏の個人文書が、エル・ライブラリーに保管され、その整理もされているという情報をエル・ライブラリーから提供したのが、取り組みのきっかけである。これらの文書資料をもとに、関係者のオーラル・ヒストリーを追加して、近江絹糸人権争議の全体像把握の史料とする目的で行われ、口述記録だけでなく、映像の公開も準備されている。

 インタビュアーおよびオーラルのまとまめは、梅崎修(法制大学キャリアデザイン学部准教授)・南雲智映(連合総合生活開発研究所研究員)・島西智輝(香川大学経済学部准教授)の3氏による。
 梅崎修の解題によれば、近江絹糸人権争議については、いくつかの先行研究はあるが、本書の新しさの第1は、文化集団の活動と労働運動の関係が分析できる証言であること、第2は、人権争議終了後の組合分裂の証言が得られる点だとされている。「争議自体が集団行動なので、全体像を把握している人はいないと考えてよい。それゆえ、これからも史料の収集と作成は続けられるべきであろう」「加えて、争議の経緯は、近江絹糸内部の事業所ごとの差異も大きい。争議の分析のためには、事業所別の歴史証言が必要になろう」と。


(1)小林忠男氏のオーラル(全2回)と(故)辻保治コレクション座談会記録

 <小林忠男氏のオーラル(全2回)>
小林忠男氏 小林忠男氏は、1936年6月、長野県更科郡桑原村の小作農家に7人兄弟の三男として出生。貧しくて高校へ進学できず、近江絹糸なら近江高校をもっているから、高卒資格を得られるという教師の勧めで1952年に就職し、彦根工場の2交代現場の深夜番=“ふくろう隊”で働きはじめた。当時の日給は270円。高校へいった連中とは違う勉強をしようと思って、柳田謙十郎の『倫理学』や出隆・古在由重の『史的唯物論』、小林多喜二の『蟹工船』などを独学で学んだ。現場は過酷な労働条件と労務管理に不満が充満していた。1954年5月後述する辻保治と文芸運動で(彦根地域の詩集『溶岩』に書いた辻の詩がきっかけ)知り合い、6月に「6日に深夜番の職場放棄を決行する」と告げられ、「やるしかない」と行動する。この時の工場長の対応やピケを張る男子工員、女子工員たちのストライキの様子がリアルに口述されている。支援部隊も全繊同盟はもちろん、総評の旗も林立した。会社側は、暴力団まがいの連中(「“カラス隊”と僕らは呼んでいた」)を雇って、正門前をロックアウトした。海員組合の応援部隊がでっかいクリッパーでバリケードを切り、入れるようにした。「最初のストライキはほぼ内部の人間だけで始まった」と。
 支援部隊専用のステージを県道側に作って、そこから、組合員にアピールする。5月末には、本社に全繊同盟が新組合を結成し、6月30日の全体の単一組織結成大会で加盟するが、小林氏自身は「全繊に反感をもっていて」、辞任を表明するが、後に撤回して、大阪本社勤務、組合本部役員となる(18歳)。
 第2回目のオーラルヒストリーでは、ストの終結にいたるまでの経緯、終結後の文化運動・サークル活動が活発になったことが語られている。終結段階での中労委斡旋時の太田薫・総評議長の印象も興味深い。勝利の後は、「職制が威張らなくなった」。労働条件や寮の改善などが獲得された。そして、職場サークル運動に火がついた。コーラス、文芸誌サークルや哲学の学習会など、ガリ刷りの職場新聞「らくがき」運動も盛んになった。「らくがき」運動は、争議をどう受け取っていたかを知る上で有効だった。しかし、パッと燃え上がったけど、かなり短期間だった。
 組合分裂については、会社再建の方途をめぐって、銀行融資派か“民族資本”擁護派と、
本部派と再建派に分かれ、小林氏自身は、技術者になりたくて、1958年に退社する。

<辻保治コレクション座談会>

辻コレクション 辻コレクションと当時の文化活動を中心に5名の元組合員と辻夫人が語る。
A氏から強烈な人権争議とその後の組合分裂という二つの経験が語られる。
「らくがき」運動は、一冊の大学ノートに皆が思い思いのことを書いて、1週間に1回職場集会で公開し、要求化すべきことはして解決していく。人権争議の引き金となった22項目要求も、トイレとかに書かれていた「らくがき」からである。
Bさんからは、指導者辻保治像が語られる。書いたものを見せると、「こうせよ、ああせよ」と言うのでなく、「こういうものもあるんだよ」と言われて、結局「洗脳」されていったと。
Cさんも、組合教宣部で辻氏から職場新聞づくりや、「書く」ことを教えられた。言葉を大切にし、無駄なことは書かず簡潔にと。ここでは、女子寮を説得することが鍵だと、説得工作を受けた側の記憶も口述されている。
上述の小林氏も、辻から「読んだ人が共感をもってくれる詩でないと、ダメで、それも後退するのではなく」と指導されたことを述べている。この座談会ではなく、先の小林自身のオーラルで、辻のことを、人権争議に対する全繊の指導や十大紡の思惑を実に客観的に分析していたと述べている。
辻夫人が夫を語る。辻はストライキの最中は肺結核で入院していたが、「あの争議は暴動だった」と語っている。組合運動をやめてからは、「地名」についての考古学的な研究に没頭していたと。その結果をまとめたものもあると。
 辻コレクションの資料目録の整理をされた下久保さんの話。最期の構想は「近江労働史」で、第3章まで執筆計画が作られていて、「自分が最後にオルグされた人間なんだ」とその調査・整理に取組んだと。組合とか争議の歴史ではなく、人の暮らしのなかでどうたたかわれたかの問題意識だったと。
 梅崎のまとめでは、争議後のサークル運動の広がりは、上からではなく、下から澎湃とわき上がってきて、いつの間にか文芸や綴り方運動のような形となっていく、戦後史を考える上で、非常に大事な事例であると。この貴重な辻コレクションはそっくり、社運協のエル・ライブラリーに所蔵されている。

(2)中村幸男オーラル・ヒストリー(2回)

中村幸男氏 中村幸男は、1934(昭和9)年滋賀県生まれ。高校卒業後、1953年近江絹糸長浜工場に入社し、労働組合役員として、人権争議に参加し、争議終了後も近江絹糸労組や全繊同盟、大阪同盟、連合大阪の役員を務め、退職後も自然観察活動やユニークな地域市民活動を続けられている。
高卒なので、社員で社員服を着て、争議の前から主任になっていた。身分格差が歴然とあり、「月例首切り」でリストにあがった部下を説得する役目を拒否して、工場長ともめたり、労災隠しに文句を言ったりしていた(19歳)。出張中に、争議前の「御用」組合の副支部長にも選ばれていた。
スト決起の前日、午前中は職制らが呼ばれて「身体を張って労働組合結成を阻止せよ」と命令され、午後下宿先に、全繊や近江絹糸労組本部の人が、長浜の決起を促しにきた。
 深夜に、「中村が来たぞ」と言ったら、女子寮からみんなわっと出てきてくれて、僕の方がびっくりした。僕が39年労働運動を続けさせてもろたのは、全繊27万人が一人480円のカンパで勝たしてもろた、その恩を背負って生きていかなあかんと思ってきたから。
 106日ストの継続は、その生活面の支援のカンパと、女の人のいちずな思い、マスコミの応援=「世論の良識」も大きかった。毎日毎日、スクラム組んで労働歌を歌うてた。新組合の長浜支部長として、長浜工場閉鎖の時も、掛け合いに行き、いくつかの要求の中に、アベック転勤を認めよも入れて、23組の夫婦が別居せずに済んだ。その一組が僕とこで、津工場へ行った。津工場から組合本部役員に選ばれて、本部の教宣を担当した。組合分裂も再建派と全繊派に分かれて、僕のおらんうちに画策されてびっくりした。
 全繊の婦人対策委員も務め、寄宿舎改革に取組み、本部の機関紙「きんろう」の編集を担当して、通信員制度をつくって、現場の声の発信に努めた。1970年には大阪支部専従、1979年大阪同盟へ出向し、片岡馨会長と出会い、「肩書きで組織を動かすのではなく、人間は肩書きを外してなんぼや」という片岡語録がその後の生き方を決める。89年労働戦線再編後の連合大阪の副事務局長に就任し、1993年に退職するまで、労働運動に専念。
 組合専従を退職して、一切の肩書きがなくなっても、片岡語録を活かして、自分で肩書きをつくった。「夫婦で桜を植える会」、世界はげ頭協会会長とか、自然保護運動とか、地域でいっぱいやることがあって、今は、夫人の介護を続けながら、デイ・サービスに行っている間を利用して、市民活動を楽しんでいる。20歳の人権争議の時から毎日日記を書き続けている。(伍賀偕子)