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『きり拓く 大賀重太郎追悼記念誌』


きり拓く ひとびととゆめをつないだオトコのものがたり 大賀重太郎追悼記念誌』大賀重太郎追悼記念誌編集委員会(2014年1月17日 B5判219頁)

 2012年7月8日に逝去された大賀重太郎氏を偲ぶ記念誌である。

<障害者運動の「裏方」に徹して>
 第一部には、「障害者運動の裏方」としての氏の人柄や功績を称える追悼の言葉が、障害者運動に携わるオール日本規模の団体・グループを代表する人々から寄せられている。巻頭のことばに「大賀の前に大賀なく、大賀の後に大賀なし」という最大級の賛辞(河野秀忠=障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』編集長)が飛び込むが、「人間は二度死ぬという。一度目は肉体の死。二度目はボクたちの記憶から消える時。この大賀重太郎さんへの記憶が詰め込まれた文集が、末永く大賀さんとの心をつなぐ鎖たるべしと、願わずにはおれない」と。
 偲ぶ会でのメッセージや、本誌編纂に寄せられた人々50数名の言葉をつないでいくと、障害当事者主体の運動という点から言えば、「運動の裏方」に徹してはいるが、状況の問題点を掴み取り、求められている運動をプロモートしていく過程と、必要な人々を繋ぎ、発掘していく優れたオルガナイザーの姿が浮かび上がり、巻頭の言葉に納得がいく。

<障害者解放運動のエポック=「全障連」結成の意義と展望を語る諸論文>
 第二部から第四部に、「大賀重太郎の足跡(Ⅰ)〜(Ⅳ)」が編まれている。
 第二部では、「略年譜」で日本の障害者運動の流れが的確に記述されており、そのエポックとも言うべき「全国障害者解放運動連絡会議」(全障連)結成(1976年8月)に至る歴史的経緯とその意義が氏の論文「全障連運動の歴史的展望」において語られている(森安拓史という筆名で『障害者解放運動の現在―自立と共生の新たな世界―』に収録/現代書館/1982年)。
 全障連の結成は、障害者の主体を無視した「福祉」を厳しく告発し、社会保障の対象者として常に客体化された存在から、障害者自らの自立と解放運動を原則とする思想と運動を築く歴史的役割を果たした―と。具体的な運動展開としては、養護学校義務化阻止と赤堀差別裁判糾弾闘争の過程でその原則を血肉化し、共有化していった。

 第四部の「論文・制度政策研究」には、氏の旺盛な執筆活動からいくつかの論文が収録されている。『大阪社会労働運動史』第七巻(大阪社会運動協会発行)には、80年代後半から90年代を展望して「自立と社会参加をめざす障害者運動」が論じられている。80年代後半の労働運動再編期にあって、「これまで総評を結び目にした共闘運動が滞り」、「障害者運動独自の基礎と行政要求運動の手法、目標を立てる」戦略が求められ、地域生活に運動基盤を築き、地域での独自の小規模作業所や各事業活動の創造過程などが述べられている。これらの論文から、氏がどのように障害者運動の原則と思想的基盤について、そして、戦略と豊かな展望を抱いているかが読み取れる。
 
<震災復旧・復興の主人公としての障害者・市民運動を発信>
 第三部の足跡(Ⅱ)「阪神・淡路大震災の救援活動〜市民活動へ」が、氏の真骨頂とも言える運動でありオリジナルな発信である。姫路市の自宅で「兵庫県南部地震の恐怖」に直面し、電話とFAXで仲間の安否確認、刻々と変わる救援・支援の策が発せられていく。「なんでこんなに涙もろく、なんでこんなに腹立たしい」という見出しでは、「八〇日間、私は感情の起伏をこれほど激しくしたことはなかった。涙ぐまなかった日、腹を立てなかった日は、ほとんどなかっただろう。生き延びてくれた仲間、支えてくれた友人や知人、いっしょに活動してくれたボランティア、広がった共感、・・まだ生きていけるという実感がある」と。この初動に発せられたFAX通信などの第一次資料も一部収録されている。そして、40の被災地障害者グループと連携をとり、「被災地障害者センター」を起ち上げて、障害者が主人公になった草の根活動を粘り強く展開し、行政の「復興計画」の誤りや限界に迫っている。障害者のヴァルネラブル(傷つきやすい)な存在という捉え方にとどまらず、一般市民以上の力強さを発揮する存在として、復旧・復興の主人公として自己決定が尊重されるべきとする提言は、3・11以降の被災者支援の運動に活かされ普遍化されるものだと考える。
 以上のような豊かな内容の紹介に字数を費やしすぎて、第五部=「素顔」の大賀さんや、夫人の順子さんの聞き取りに言及できなくなったので、ぜひ、本誌をお読みいただきたい。(伍賀偕子)