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隔離の島に生きる―岡山ハンセン病問題記録集

 松岡弘之編『隔離の島に生きる―岡山ハンセン病問題記録集 創設期の愛生園』(ふくろう出版、2011・3・25)

 本書は、国立療養所長島愛生園(岡山県瀬戸内市)が所蔵する行政文書「舎長会議事録」、「一人一題・最近の愛生園」を翻刻した資料集である。
 編者は、岡山県ハンセン病問題関連資料調査専門員・邑久町編集委員会近現代史部会専門委員として長島愛生園、邑久光明園の膨大な行政文書に出会い、『長島は語る』(前編・後編:岡山県)および『邑久町史』(現瀬戸内市)に掲載された資料はごく一部に留まったことから、見た者の責任として療養所の歴史を近現代史のなかに位置づけ隔離の日々を鮮明に伝える記録そのものを広く紹介できないかと考えていたところ、自治会から登場人物の氏名公表の許しを得て、本書が成立したという。

 法律「癩予防ニ関スル件」(1907年に制定)に基づき、1909年放浪する病者は「文明国の恥」だと隔離収容するため全国を5ブロックに分け府県連合立ハンセン病療養所が青森、東京、大阪、香川、熊本の5カ所に設置された。1931年に改訂された「癩予防法」により在宅の病者も対象となった。療養所は、退所規定のない終世絶対隔離収容の場であった。
 1930年11月20日、国立最初の長島愛生園(定員400人)が開設され、1934年9月には室戸台風により壊滅した第3区府県連合立外島保養院(現在の大阪市西淀川区中島)から、被災者のうち78人の委託患者を受け入れ、同年10月に入所者は1000人を突破した。
 開設当初の1931年8月、舎長規定を作り園と患者代表との連絡機関が発足した。それぞれの病舎の長として入所者によって互選され院長に任命されたのが舎長である。その舎長と院長・職員との会議の記録が「舎長会議事録」で、1931年8月から1936年7月までが綴られている。

 解題(162〜173頁)にあるように、患者統制と患者自治の間のせめぎあいや実際の生活の上で議論された内容がありのままに記録されている。資料中の「小住宅」とは、民間の寄付で建設された病舎で「十坪住宅」として知られている。
 「舎長会議事録」は、1936年の「長島事件」までの記録であり、生活改善、自治制を要求していく経緯を読み取ることができる。
 「一人一題・最近の愛生園」は、1934年10月入所者が1000人突破したのを記念して入
所者の所感を求めたものであり、入所者が意見などを自由に聞き、その回答を1冊にまとめた簿冊である。募集数964(10月5日現在入園者総員)に対し応募数は、294点。118点の感想文と、171点の詩謡・短歌・俳句・都々逸、川柳などである。編者によって「何らかの改善を要求したもの」48.3%、「感謝を述べた者」30%強と分類されているが、園長(光田)や職員に対する感謝から、厳しい批判にいたるまで、広い幅を持った愛生園への評価が書かれている。

 編者が収蔵庫の資料を丁寧に読み解き、公開したこの文献は、長島愛生園創設期の入所者の日々、初代園長光田健輔、自治会誕生にいたる経緯を知る貴重な資料である。
また、2つの行政文書から大阪にあった「外島保養院」の実態を知ることができる。
 室戸台風による被災者に関することが舎長会の議題になったこと、「一人一題・最近の愛生園」のなかで、外島保養院委託患者に関するものが15篇含まれている。
 解題(162〜173頁)で編者が述べている1、長島愛生園の患者統制、 2、入園者総代の誕生、 3、「家族主義」の動揺については、今後の研究のヒントとなるだろう。
外島保養院の歴史を調査している私にとっては、非常にありがたい資料である。(三宅美千子:元高校教員)