『女工哀史』と猪名川 ― 名著は兵庫県で書かれた(2)

 前回は、どうして「能勢の山中」が多田村だったのかという所まででした。
今回はその謎を解き明かします。

 (下の写真は猪名川染織所の登記地番の現景

  工場は、ここから右(西)側にかけて広がり、多田神社参詣道をはさんで事務所・寄宿舎・寮・売店などが並んでいたと思われる)

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 しかし、『女工哀史』の本文には、「大阪の大資本家喜多又蔵氏の経営にかかる兵庫県猪名川染織所」という名が何ヶ所かに出てきます。そして、たとえば労働者の住居の様子について、「表面だけ二十六畳部屋に定員二十二人としておき、その実三十三人まで入れてゐる。こうなるともう入れるのではなくして無理矢理に押し込むのだ。全く足の踏み入れ処が無い。其の上此処はまた一つの部屋の配置については棟々を「松の寮」、「竹の寮」、「梅の寮」とか「何分舎」とか称え、部屋は「何十何号」と呼ぶ」といった具合に、実に見ていなければわからないことを記述しているのです。

わたしは、この「猪名川染織所」というのが本人たちの働く工場であり、またそのそばの住まいで『女工哀史』を執筆していたと目星を立てていたのですが、決め手がありませんでした。なにより、『川西市史』にこのような名前の工場の記録が全く出てきていないのです。川西村を川西町へという村議会の議案書の中には紡織関係として「大阪織物株式会社猪名川分工場」というのが出てきますが、名前がどうもあいません。しかもこれは、阪急の能勢口駅と官有鉄道の池田駅を中心に都市化し始めている川西村所在の工場です。

また、最近岩波文庫から出版された細井和喜蔵の妻だった高井としをの『わたしの「女工哀史」』は、この間の出来事を詳細に語っていて、たいへん分かりやすいのですが、そこには「兵庫県猪名川の上流の多田村にあった猪名川製織所へ入社した」とあって、「猪名川染織所」とはなっていません。しかも、この名前の会社も『川西市史』には出てきていないのです。

ただ、多田村という村名が出てきたのは、この本が最初です。間違いなく現在の川西市内にあった工場です。しかも、能勢口駅から能勢電車に乗っていくので、よそから来た人には「能勢の山中」といっても差し支えはありません。これは大きなヒントになると思いました。そこで、念のためにと考えてネットで「猪名川染織所」を検索してみました。そうすると、大原社会問題研究所の所蔵する労働争議に関する調査資料の中に「猪名川染織所」の労働争議調査表が出てきて、手書きのメモで「兵庫県川辺郡多田村」と記入されています。争議発生時期は大正十五年となっています。また、ネットにはもう一つ、『官報』が掲載されており、第四三〇二号(大正一五年一二月二四日)に内務省告「第二三九号」で健康保険組合の設立を認可しているのです。それが喜多合名会社(大阪市西区江戸堀南通二丁目十三番地)で、組合の名称「猪名川染織所健康保険組合」、事務所の所在地「兵庫県川辺郡多田村新田字下川原二百六十二番地ノ一」となっています。なお、この健康保険組合解散についても官報があり、昭和七年七月一日であることが明示されています。まさしく、細井和喜蔵が『女工哀史』本文で何度か紹介している大阪の資本家喜多又蔵の会社「猪名川染織所」そのものです。だから、もうこれに間違いないと考えられるようになったわけです。高井としをが「猪名川製織所」と記載しているのは「猪名川染織所」の勘違いだったというべきです。なにしろ、一九八〇年という相当後年になって記述された自伝ですから、間違ったとしても無理はないと思います。むしろ、よく似た名前を五七年ものあいだ覚えていたことの方に驚きます。それだけ、思い出も深いものがあったのでしょう。(つづく)

<著者・小田康徳>

 1946年生まれ。大阪電気通信大学名誉教授。NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会理事長。あおぞら財団付属西淀川・公害と環境資料館館長。主な著作は『近代日本の公害問題―史的形成過程の研究』・『歴史に灯りを』など。『新修池田市史』など自治体史にも多数関係している。川西市在住。