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『女工哀史』と猪名川――名著は兵庫県で書かれた(3)

 日本近代史研究者・小田康徳先生の『猪名川史話―兵庫川西・川とくらしの地域史』が2017年夏ごろには刊行されます。それに先立ち、関西の労働史にかかわりの深い部分を抜粋し、4回に分けて連載します。予告編がこれだけ面白いと本編が楽しみですね。

f:id:l-library:20161122131759j:plain この猪名川染織所のあった住所ですが、それは少し前にここで紹介した多田村多田院字順松(じゅんまつ)に設けられた笹部氏と西村氏の友禅工場の洗い場と同じ、まさしく同村新田字下川原二六二番地の一となっていたことにも驚きました。友禅工場の方は百坪の水面使用許可を昭和三年一月、兵庫県知事に願い出たものです。この友禅工場の洗い場と猪名川染織所は同じ場所にあったわけです。
そうすると、どうなるのでしょう。これは同一の事業体とみなすべきか、あるいは他に何か事情があったものか、そこはまだわかりません。ただ、高井としをの著書では、「そこでは木綿の二幅物を織っていましたが、染め物もしていました。工場で織り上げたものを染めて、青や赤の美しい布を猪名川の清流で晒していたのです」と書かれています。こうなってくると、この二つの事業所、別々のものとは言えないのではないかという思いも強くなってきます。しかし、まだ結論は出さない方がいいのかもしれません。
ともあれ、『女工哀史』は、多田村の字新田、猪名川の流れのそば、猪名川染織所で働き出した細井和喜蔵・としを夫妻の協力で書き続けられたものでした。彼らの住まいは、猪名川沿いの農家、そこに間借りした少し広めの二部屋でした。
高井としをは一九八〇年に書かれた『わたしの「女工哀史」』の中でそのころのことを懐かしみ、さまざまに述懐しています。
その会社の工場は猪名川のそばにあり、男女あわせて五百人ほどで、女子は寄宿舎住まいが多く、男の人や夫婦共稼ぎの人は社宅で、小学校も近くてとても良い所でした。そこでは木綿の二幅物を織っていましたが、染め物もしていました。工場で織り上げたものを染めて、青や赤の美しい布を猪名川の清流で晒していたのです。私たち新参者には社宅の空き家がないので、近くの百姓家の二階を借りました。さすがに田舎の家は広くて、八畳二間を借りて一カ月の家賃が二円五十銭。荷物が一つもないので広すぎて困るほどでした、(中略)
猪名川製織所では、和喜蔵は機械直し、私は織場で働きましたが、給料は安くて二人で一カ月働いて三十円ほどだったので、年の暮れも近く寒くなっても、木綿の着物も現金で買えず、ニコニコ絣の着物と羽織の反物を月賦で買い、私は生まれてはじめて男物の着物と羽織をぬってあげたら、和喜蔵は大喜びでおどりだしました。
 そんな貧乏暮らしでも二人は若く、田舎の生まれでしたので、秋は山や川の景色を楽しみ、川で洗濯をしたり、日曜日には山歩きをして栗を拾ったり、楽しい毎日でした。和喜蔵は何としても『女工哀史』を世に出したいと、毎日すこしずつ書いておりました。(以下略)
 としをの文章は、この後も、改造社から送られてきた百円の印税をめぐる警察とのやりとり、それをうけて住まいを川の対岸に移した顛末など、興味ある記述が続きます。川には橋がなかったので、足袋を脱いで飛び石伝いに対岸に渡り工場に通ったことも記されています。こうして、半年余りを猪名川の流れとともに過ごしたのですが、大正一三年(一九二四)二月二三日、なごりを惜しみながらこの地を離れ再び東京に帰り、やがて、原稿を書き終え、翌年出版にこぎつけます。しかし、和喜蔵の命はここで途切れます。また、妻のとしをは、彼女の父親の意思を慮ったため正式の戸籍に入ることがなく、明治民法の規定で、和喜蔵死後の一時を除いて、その印税も手にすることができませんでした。(つづく)
(写真撮影:小田康徳
 猪名川染織所の登記地番の現景
 工場は、ここから右(西)側にかけて広がり、多田神社参詣道をはさんで事務所・寄宿舎・寮・売店などが並んでいたと思われる)

<小田康徳>
1946年生まれ。大阪電気通信大学名誉教授。NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会理事長。あおぞら財団付属西淀川・公害と環境資料館館長。主な著作は『近代日本の公害問題―史的形成過程の研究』・『歴史に灯りを』など。『新修池田市史』など自治体史にも多数関係している。川西市在住。