『女工哀史』と猪名川 ― 名著は兵庫県で書かれた(4)(最終回)

  少し間が空いてしまいましたが、いよいよ連載最終回です。

 

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 『女工哀史』の中では、猪名川染織所の話は少なくありません。ちょっと引用してみましょう。大正一二年(一九二三)一〇月兵庫県で行われた「労働調査」の実態を暴露したものです。

 大正十二年十月には兵庫県、翌十三年十月には全国各府県で「労働調査」といふものを執行したが、そんなたわいもないことで労働界の精しい実情が調べられると思ふ、お役人様の、ノホヽンさ加減が嗤ひたい。有名な実業家でフランスの平和会議にまで日本を代表して行った喜多又蔵氏の経営にかゝる兵庫県猪名川染織所に於いて、此の細井和喜蔵がどう調査されたかを一寸お話しよう。

 抑も小生を調査すべく兵庫県から任命されたものが色染部阪倉主任といふ工場の支配階級であって、原籍と現住所と学歴を訊いた以外のことは、皆な彼れが勝手にペンを走らせて認めて了つた。こんな調子で五百人程の男女工は悉く工場監督によつていゝ加減な出鱈目、それも資本家にとつて都合のいゝように作つた用紙で報告されて了つたのであつた。(岩波文庫版二一九ページ)

 

 この文章でも大正一二年一〇月には、多田村に来ていることが明らかにされています。彼の文章がまさに現実を踏まえていることがこんなところにも示されているのです。川西の近代史を知るためには、今後この工場に関する『女工哀史』の記述は特別の注意を以て研究しなければならないでしょう。また、従業員が五〇〇人もいたという大きな工場でありながら、歴史資料の調査ができていなかったという事実も残念の極みです。

 ところで、この工場について、幸いなことに昭和九年(一九三四)にこの工場の近くで生まれ、現在も少し離れたところで暮らしておられる滝花恒良氏のお話を聞くことができました。それによりますと、猪名川染織所の住所とされた多田村字新田下川原と、笹部・西村両氏の経営する友禅流し工場の住所=多田院順松とは隣り合った場所で、一つながりとなっているとのこと。ちょっと前まであったニチカン川西工場からベリタス病院のあるあたり。氏の記憶ではすでに猪名川染織所はなく、大日本繊維の麻工場と友禅工場であること。麻工場は規模が大きく、たくさんの女工さんが働いていたこと。その女工さんは地元の方はほとんどいなく、多くは滋賀県方面からこられていたこと。社宅や寮、夫婦者には家族寮があったこと。盆踊りの時には近くの住民も遊びに行ったこと。工場は大きな木材でできていたこと。道路に面して多田神社の参詣者や、この工場の従業員などを相手にした商店も並んでいたこと。昭和二〇年(一九四五)には米軍のP51戦闘機の銃撃を受け、工場も焼けたこと。以上のようなことをお話していただきまた。

 なお、同氏は、戦時中上流で木をどんどん伐ったために、水がたくさん出るようになり、多田では川幅が広がり、戦後の水害で工場も流されたのを見たとも語られました。多田の大日本麻工場への空襲については、『市史』第三巻三七六ページにも記載があります。ただし、『市史』第三巻では多田の空襲について「新田字深山」「新田字下川原」そして日本麻工業(戦後日本繊維工業と改称)の三件が別々の攻撃のごとくに並べられています。これは、あるいは日本麻工業という軍需工場一つをターゲットにしたものだったのかもしれません。

 猪名川の流れがその沿川に暮らす人の心に深い感慨を催していたことは、古代の万葉集の歌もさることながら、近代に入っては、明治末から戦前・戦中期にかけて作家として活躍した上司小剣(★かみづかさしょうけん)の例もあります。上司小剣多田神社宮司の家に明治七年(一八七四)に生まれ、明治三〇年(一八九七)までをそこで過ごした人物です。彼が物した、たとえば『石合戦』は、猪名川の風景を舞台に、維新後の村の人々の階層や年齢等による意識の違いが物語を重層的に展開させる様子がヴィヴィッドに描かれています。川西市史編集室が編集し、川西市役所が発行した『川西史話』(一九八一)には、小山仁示氏による味わい深い文章が掲載されています(上司小剣の文学と多田)。また、吉田悦司『上司小剣論』(翰林書房、二〇〇八年)、大塚子悠『星ひとつ―小剣さんを歩く』(信樹舎、二〇〇六年)があります。(小田 康徳)

<小田康徳>
1946年生まれ。大阪電気通信大学名誉教授。NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会理事長。あおぞら財団付属西淀川・公害と環境資料館館長。主な著作は『近代日本の公害問題―史的形成過程の研究』・『歴史に灯りを』など。『新修池田市史』など自治体史にも多数関係している。川西市在住。