水俣を伝えたジャーナリストたち

著者:平野恵嗣 2017年6月 岩波書店

f:id:l-library:20180620135012p:plain 

 1954年8月1日、『熊本日日新聞』は「水俣市の漁業集落で猫が狂ったようにキリキリ舞って死んでしまう」との記事を載せた。それから2年後の1956年5月1日、チッソ附属病院が水俣保健所に「脳疾患症状患者発生」を報告した。水俣病発生の公式確認である。

 本書は、水俣病の経過をフォローするジャーナリストが患者、チッソの圧力に屈しなかった医者、学者から見聞きして、彼らが一過性で終わることなく、どのように真実と向き合おうとしたことをまとめたものである。

 ここで取り上げられた人々の水俣へのアプローチの動機はさまざまである。「水俣を撮って写真家になりたかった」桑原史成は半世紀以上「傍観者」として関わった。とはいえ、1962年にチッソ附属病院で宇井純ともに「ネコ400号実験」と呼ばれる細川病院長作成の記録を撮影、入手していた。松岡洋之助は一個人として被害者支援に徹したNHKのディレクターだった。同じNHKの宮澤信雄は上記の「ネコ実験」の公表に衝撃をうけ、熊本転勤後被害者側に立つ報道を貫いた。熊本日日新聞の記者、久野啓介は1936年生まれの自分が「水俣病問題」と出会うことによって、戦前の思想を清算していった。写真家のユージン・スミスは「客観性などというものは存在しない」という姿勢で「母子像」を撮影した。その助手、石川武志は30年以上経て水俣を再訪、2009年に以前取材した胎児性患者たちを、できるだけ以前と同じ場所で撮影しようと試みた。

 朝日新聞社の増子義久は高校野球の観戦にきていた三池炭鉱のCO中毒患者の存在から水俣病にさきがけ、三池炭鉱事故の被害者支援にかかわっていた熊本大学原田正純に出会う。そのことからどの現場にも通底する事実を原田の助言を信頼して記事にしていった。熊本放送の村上雅通は水俣生まれゆえに水俣病を避けてきたが、1995年の「水俣病の政治決着」の1年後から水俣に入り、人生の空白を埋める取材を進めた。その意志を引き継いだ井上佳子は1983年入社当初はアナウンサーだったが、5年後に記者へ配置転換されて以後、恵楓園のハンセン病の取材からスタートして未認定患者の公的救済に奔走する佐藤英樹、川本輝男両氏の取材を中心に継続的に水俣を描いていった。

 この本は、水俣病問題そのものでなく、それを伝えてきた記者、写真家などジャーナリストを描いたものである。この点で言えば、ジャーナリズムは組織ではなく個であるということを感じる。メディアは個人の集まりなのである。

 また、ユージン・スミスのことばの繰り返しになるが、公正中立というのは当事者に目配りをしながら「バランスのよい」報道をすることではないのである。企業や国が住民をないがしろにしている問題に対して、ジャーナリスト、いわんや芸術家、学者がどういう立場でかかわるべきかを、この本は問題提起している。(森井雅人)