解題『近江絹糸人権闘争=労働争議 自由と人権を守る血と涙の闘いであった』

 日本労働運動史上に名高い近江絹糸争議(1954年)関連の図書については、当事者の手記をこれまでも寄贈していただいています。今般は、そのお一人である朝倉克己さん(下の写真)の手記を本田一成・國學院大学教授を通じて頂戴しました。

 当館にて2016年から2017年にかけて行った朝倉克己さんのオーラルヒストリー(法政大学・梅崎修教授グループによるインタビュー調査)の動画は、下記の「労働史オーラルヒストリープロジェクト」のページにありますのでご参照ください。

http://shaunkyo.jp/oralhistory/person.php?id=5

 また、朝倉さんの手記は当館にて閲覧可能ですので、ご希望者は連絡のうえご来館ください。

 お問い合わせはこちらから:http://shaunkyo.jp/contact/

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資料紹介・解説 朝倉克己著 「近江絹糸人権闘争=労働争議 自由と人権を守る血と涙の闘いであった」

解題著者:本田一成

 

1.はじめに
 朝倉克己氏の手記「近江絹糸人権闘争=労働争議自由と人権を守る血と涙の闘いであった」について解説する。この手記はエル・ライブラリーに寄贈され、公開されることになったため、利便性を考えて著者(本田)が翻刻した。この機会に手記の紹介と解説を試みる。

 朝倉氏は、1954年6月に勃発した日本最大級の労働争議である近江絹糸争議の渦中にあった。近江絹糸彦根工場に勤務し、争議中に近江絹糸労働組合彦根支部長、後年には同労組本部組合長に就任した。

 近江絹糸争議の中心人物の一人であり、労働組合のリーダーであった朝倉氏が著した手記の内容について解説する前に、手記が生み出された経緯や、本争議に関係する数多くの著作や資料におけるこの手記の位置づけを中心に記す。

 著者は、2019年2月に『写真記録・三島由紀夫が書かなった近江絹糸人権争議』(以下『写真記録』)を刊行したが、もともとの契機は出版を朝倉氏から託されたからであり(詳しくは『写真記録』の「まえがき」で記した)、その後執筆のために朝倉氏へ2回のインタビューを敢行している。

 この手記は、まさに2回のインタビューが完了し、『写真記録』の執筆中に著者の自宅へ届けられたものである。著者の執筆に役立つようにとの配慮にはもちろん感謝に堪えないが、他方で朝倉氏が著者に出版を託した時、「もう書けなくなった。」「書く気力が残っていない。」と断言していたので、驚いた。

 朝倉氏は、三島由紀夫が近江絹糸争議を題材にして世に出した名著『絹と明察』の登場人物モデルの一人で直接に三島由紀夫から取材を受けた人であり、自著二冊を発行し、UAゼンセン友の会『歴史を語りつぐ』に長文の手記を寄稿するなど、自身も精力的に近江絹糸争議について書を重ねてきた人である。

 もう誕生しなかったはずの手記が新たに姿を見せたことで、著者は大きな関心を寄せるとともに、インタビューには聞き手の構想が何がしかの影響を話し手へ与えることを実感した。朝倉氏は明らかに著者からの問いかけや会話の途中で、再び書くことを決断したのである。しかも、手記を読みはじめてすぐさま察知できたのは、歴史的事実の語りの背後にある当事者の一人としての心情を伝えることを優先していることであった。

 数ある近江絹糸争議関係資料の中で、朝倉氏の手記をどのように位置づければよいのであろうか。近江絹糸争議の勃発、経過、決着の史実についてはオーミケンシ労働組合『大いなる翼を広げて』、全繊同盟『近江絹糸大争議の経過(第一部)(第二部)』、青年法律家協会編『人権争議-近江絹糸労働者のたたかい-』法律文化社、上野輝将『近江絹糸人権争議の研究-戦後民主主義と社会運動-』(部落問題研究所)などをはじめ十分に追跡できる。また、日本最大級の争議ゆえ連日のマスコミ報道があり、新聞や週刊誌などの日々の記事に見るべきものがある。

 その一方で、当事者たちの意識や行動、とりわけ内面の心情については、それほど多くの資料があるわけではない。ただし、散見される資料にあたると意外な、あるいは信じられない出来事やそれに対峙した当事者の心情が露呈する場合が少なくない。一例をあげれば、日夜争議現場に張り付いている新聞記者が修羅場の中で「絵になるような」負傷者の写真を欲しがる言動に接し憤る気持ちなどである。これは富士宮工場で争議の渦中にいた、こみきみこ氏の手記『その時19才の私は』(私版、エル・ライブラリーへ寄贈、公開中)が伝えた。おそらく全国各地に発掘されないままの手記が人知れず消失する時を待っている。

 こうした作品の他に当事者たちの心情がわかるものとして、例えば、大垣工場関係では「近江のうた」編集委員会『近江のうた』、長谷川金重『二人三脚夫婦人生幸代と共に』(みずほ出版)、彦根工場関係では白石道夫編『体験者がつづる近江絹糸人権争議自由と人権を求めて』(文理閣)などがある。また当事者である若者たちの手ずからの文集である近江絹糸紡績労働組合編『らくがき』(三一書房)は見逃せない。先述のオーミケンシ労働組合『大いなる翼を広げて』の随所にも貴重な記述がみられる。この他、自著ではないが近江絹糸争議の当事者たちの心情を知りうるオーラルヒストリーシリーズがある。

 以上のことを勘案すれば、朝倉氏の手記の内容は、史実を伝える類書が多い中で、また自著作品(『近江絹糸「人権争議」はなぜ起きたか』『近江絹糸「人権争議」の真実』(ともにサンライズ出版)、先述のUAゼンセン友の会『歴史を語りつぐ』の手記)と重複もあるので、特段に目当たらしいものばかりではない。むしろ、当事者としてどのように考えていたか、また争議後はどのように総括しているか、などに見るべきものがあると思われる。

 朝倉氏の手記は、2018年6月に著者の自宅へ届けられた。手記が到着した時点では手記のタイトルや執筆時期が記されていなかった。そこで、後日、朝倉氏に照会した結果、改めてそれらが記された手紙が届き、執筆時期を知ることになった。執筆したのは2017年10月前後であるという。著者の第1回インタビューが11月上旬であるので、おそらく11月に執筆されたと推測される。その時の手紙にもタイトルの解説という体裁で近江絹糸争議の記述があるが、その部分は翻刻していない。手紙は手記と同様にエル・ライブラリーへ寄贈した。

 朝倉氏の手記は縦書き原稿用紙に手書きで執筆されていた。今回、公開されるに至り、原稿用紙の文字を著者が翻刻した。原稿用紙はかなり自由に用いられ、頁によって字数、行数が大きく異なっていたが、なるべく原著の体裁を守るために、原稿用紙通りの頁に収め、厳密には異なるにせよ、原形に近いレイアウトにしてある。なお、原稿はゆれ表記が多いが(例えば、十五歳と一五歳、十大紡と一〇大紡など)、統一はせず、全体を通して文体を含め明らかな誤字脱字以外は手を加えていない。さらに、手記の中で複数の重複箇所がみられたが、省略せず放置したまま翻刻した。


2.注目すべき点
 朝倉氏の手記は、氏の他の著作と同様に、彦根工場の情況を詳細に伝えるものである。突出しているといってよいほど詳しい内容ゆえに、著者の『写真記録』では、近江絹糸争議の同時多発性を勘案して、意識的に他工場を描くことを決心した。この手記では、主に彦根工場おいて、争議が始まる前へ視点を集中させている。すなわち、1954年6月7日の争議勃発と近江絹糸労組彦根支部結成に至るまでの、夏川式労務管理の抑圧に苛まれていた時期、朝倉氏ら彦根東高校在校生たちや深夜勤務者たちが秘かに準備に入っていた時期などに焦点を当てている。決起した模様は描かれず、それどころか、争議中、争議後にも触れず、長い時が経過した後、退職者OB、OGの集まりの記述へと一気に飛ぶ。

 これらの内容は、新たに付加されたという点は若干あるが、多くは朝倉氏の他の著書と重複する。しかし、新味が隠されている。他著があるのにあえて改めて記した点と、その背後にある心情にこそ注目すべきである。朝倉氏は、他著では史実を伝える使命感からか、わりと客観的な記述に終始しているのに対して、この手記では主観的な記述を重ねている。

 朝倉氏がこの手記で曝け出している心情は「怒り」そのものである。近江絹糸は遠方から中卒者を大量に採用する。その中に朝倉氏もいた。採用された若者たちは故郷を離れ、見知らぬ場所で働きはじめる。勤められるかどうか、適応できるかどうかの不安がある。また各人は故郷に留まれない様々な事情を背負って出てきている。職場に対する不安だけでなく将来への不安も重なる。特に、女性労働者たちは、当時は3年間で退職することが予定されていた。不安が錯綜する中で、若者たちの唯一の拠り所は働き手としての自身であり、次に集団生活における仲間づくりであった。ささやかながら、自身以外にも信頼できる人、信用できる人、信頼関係が欲しかった。

 ところが、夏川式労務管理は、この仲間づくりを許さない。仏教信仰で目を逸らさせ、過酷な労働環境で体力を鈍らせ、それでも湧き上がる不満に対しては、舎監による監視制度や、あろうことか仲間同士を裏切らせる密告制度まで投入していたのである。純真である若者たちには、会社を覆そうという能力も意欲もない。だが、大切にしているものまで、会社の論理で奪われては、迷惑の範囲を通り越した死活問題となってくる。

 この手記でそれに思い至れば、朝倉氏が「近江絹糸争議は起こるべくして起こった」という時、夏川式労務管理への反抗という程度では収まらないことは明らかである。別の言葉でいえば、争議の根本原因は労働者の防衛措置ではない。会社のためには当然のように労働者の人権を踏みにじる経営者に対して、人間として生きたい、その希望まで奪われなくない、人間としてその経営者を否定する、という人間対人間の争いである。大げさに言えば、「人間の証明」としての争いである。

 80歳超の老人が奪われたと言い募るものは、15歳の若者がささやかながら最も欲しかったものであった。朝倉氏のこの「怒り」の前には、夏川社長の十大紡へ追いつけ追い越せで邁進した拡大主義と抑圧的労務管理はまったく否定される。人間として生きたいという希望は、経営者だからといって奪えるものではないから、当然である。だが、近江絹糸争議が人権争議と呼ばれた理由が説明される際に、この奪われぶりが含まれることは一度もなかった。

 手記の後方に朝倉氏がOBOG会の交流を重ねた描写を配した心理的背景、最後の一文の真意をくみ取るべきであろう。


3.おわりに
 朝倉氏の「怒り」は、納得できるものである。すると、現在の労働現場への示唆に目がいく。消耗、あきらめ、分断など、これらは労働者の個人主義化や若者気質が原因なのであろうか。近年の労働現場の不幸は、近江絹糸の経営者が狙いを定めて奪おうとしたのと、まったく同じでものが主因ではないのか。これが手記の最大のメッセージなのかもしれない。

 実はインタビュー中、朝倉氏は現在の労働組合への批判が多かった。著名な労組リーダーも名指しで糾弾していた。果たして、経営者と対峙しない労働組合は本当に労働者の組織なのか、と。この解説文を執筆している2019年7月、厚生労働省発表が飛び込んできた。「個別労使紛争が増加中。相談内容の7年連続最上位は「いじめ・嫌がらせ」」。人権争議は終わっていない。

 『朝日新聞』2019月5月4日付朝刊に掲載された『写真記録』の書評で斎藤美奈子氏はこう書いている。著者は凝視し、繰り返しつぶやいたものである。「組合が機能していた65年前と働く人びとが分断された今日との差!この熱気を私たちはいつ失ったのだろう。」