エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『石の上にも三年 ―季刊・文芸投稿誌『蔕(へた)文庫』の歩み―』

松井勇 著 (蔕文庫舎/2019年8月) 

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 本誌は、日本社会文学会『社会文学』第46号(2017年)に掲載された作品を、本年2019年8月に加筆修正したものである。

著者は、1933(昭和8年)10月大阪市東成区で生まれ、疎開先の三重県志摩郡(現鳥羽市)で敗戦を迎え、夜間高校を出て、国税庁の大阪南税務署に配属。全国税労働組合の労働運動をスタートに、敗戦直後の労働運動の真っ只中を走りぬけ、解雇後、自治労奈良県本部書記に入り、書記長・委員長に選出され、奈良総評事務局長、連合奈良会長、奈良県労働者福祉協議会(労福協)会長を務めたという、労働運動ひとすじの40年を送ったが、本誌は、退職後に自身が立ち上げた「文芸投稿の場」=『蔕文庫』の約20年の歩みを綴っている。

 『蔕文庫』のネーミングの「蔕」(へた)とは、― 上手下手の「へた」が源流だが、素人の文章とは言え、「下手文庫」で括ってしまうのは失礼なので、柿やなすに残っている萼(がく)である「蔕」の文字を当てることにした。蔕は、真っ先に切り落とされるが、「ヘタは果実の生育を直接支配している重要な器官」(農文協編集発行の果実全書「カキ・キウイ」より)であり、柿は生育するとき、蔕で呼吸し、成長に必要な物質などを蔕が調節している、いわば、物事の土台、ねもと ― なのである。

 編集委員の久保在久氏(本欄でも何度か紹介している近代社会労働運動史を紡いできた歴史研究者)が創刊時の思い出を、― 蔕という意表をつく題名は、ユニークだと思ったし、底辺の労働者にも目配りする労組出身の松井さんらしい発想とも思った。松井さんのように偉くなられた方なら、定年後は労働関係団体に「天下り」されると思っていたので、意外な気がしたが、そのお考えに賛同し ― 編集委員を引き受けられたと書かれている(『蔕文庫』第四十号「創刊の頃」より)。

 『蔕文庫』の文字を題字に書かれたのは、大阪天満宮繁盛亭で大活躍しておられる、落語文字の大御所、橘右佐喜氏である。

 著者自身も、― 還暦を過ぎ「余生」を送る歳になって、雲をつかむような話に耳を傾け、向き合ってくれる人たちが大勢いたのである。「余生」を「余勢」に転じて賭けてみたい、道は自らが歩んで切り拓くもの ― と、当時の決意を語っている。

 著者が築いてきたネットワークにとどまらず、実に多くの人びとが賛同し、編集委員や投稿者・読者となった。

 2004年には、第7回日本自費出版文化賞で「文芸A部門賞」を受賞した(第12~15号)。選考委員である作家の中山千夏氏の推薦の言葉を抜粋すると ― これまでも同人誌作品が最終選考まで残ったことはあった。このような総合誌のかたちをとったものは珍しいのではないか。編集の担当者が次のように書いておられる。「どんな困難な時代にも、ひたむきに生き続けた人たちの足跡と息吹を、いまの高齢社会のなかで全世代共有のものにしたいと考えるようになった」そんな志を抱いて仲間を誘い、エッセイあり、創作あり、詩ありと内容もバラエティに富んでいる。自費出版というかたちを使い、このように発信していくことはとてもいいことだ ― と。

 創刊10周年(2010年春号第四十号)では、142頁、66作品もが掲載されている。

 2013年1月には、五十号に達し、これまでの投稿作品を「総目次及び執筆者別作品名」(128頁)として纏めて発行。「皆んなで会おう会」は十回を数え、書き手・読み手・支援者が一堂に会し、楽しいひとときを共有し、遠隔地にも出向いて「作品合評会」も重ねた。

 そして何事も始めあれば終りありで、著者の右目に「老齢黄斑変性」の疑いと診断され、入院・手術を受けたが視力を失い、ついに「廃刊」を決意した。

 パートナーの松井美和子さんが苦衷の決断を述べている ― 夫の右眼の恢復が叶わぬなか、左眼にも視力障碍の兆候が現れました。せめて明かりだけでも残っている間にと、廃刊を決断しました。この事をいつ皆さまにご報告申し上げ、皆さまに寛容なお気持ちで、受け止めていただけるのか悩みました。立ち上げる時は調子がいいのですが、終わる時の辛さは一言では申せません・・―(第六十七号(廃刊2017年冬号「あ・り・が・と・う」)

 著者自身は、「廃刊とあって、皆さんからの声がたくさん寄せられた。惜しまれながら廃刊を迎えたことに悔いはない。明日は若い人たちに譲ろう」と。(2017年2月15日記)

 さらに、蔕文庫に書き溜めた自作品を単行本として、次々と出版。『20世紀の片隅で―労働運動40年』(2013年3月―本著は直後に当欄で紹介)、『母』(2009年5月)『母後編』(2019年8月)。各作品とも多方面から高い評価が寄せられていて、字数の関係でここでの紹介は省略するが、その終始一貫したひたむきな姿勢に心から敬意を表する次第である。 (伍賀 偕子)