エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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「患者」の生成と変容 日本における脊椎損傷の歴史的研究

 坂井めぐみ著(晃陽書房/2019年7月/B判305頁)

「患者」の生成と変容

 著者は10代に脊髄損傷を負い、入院・療養生活から一歩踏み出して大学に入学し、企業に就職したのち、再び大学院に進学して研究に取り組んできた。

 本書は2018年の博士論文を加筆修正したもので、脊椎損傷医療の形成・展開を社会情勢、医療制度、法律、患者の生活と関連づけながら、幕末期から現在にわたる150年の歴史を検討することによって、患者像の変容を示した医療史研究であり、現在および未来の再生医療の方向性を問う貴重な労作である。

 現在日本には10万人に及ぶ脊椎損傷者がおり、毎年新たに約5,000人が受傷と推定されていて、原因は、戦争、労働災害、交通事故、スポーツ事故、転落等、さまざまである。

 幕末から明治期に和訳された西洋医学書では、脊椎損傷の症状や処置が紹介されてはいるが、あくまでも「長く生きられない者」とされていた。

 150年の脊椎損傷医療の進展の歴史を紐解いている著者自身、10代の損傷時の専門医の見立ては、「一生歩けない」と言われている。そのような著者が再生医療研究に関心をもち、大部の研究書に結実する研究生活を築くに至っている、その過程の苦闘がどのようなものであったかは、私には想像もできないが、「あとがき」で、「ある程度は主体的に生きられるようになったと思う」という自己規定に接し、本書の重みの片鱗に触れた感じがする。歴史の探索と分析、現代の課題の提起、すべてにおいて、一貫した立ち位置が明確なのである。

 本書は、序章、第Ⅰ部「脊椎損傷医療と脊椎損傷者の歴史」と第Ⅱ部「脊椎損傷者による医療への関りの現代史」、終章合わせて11の章で構成されている。

 脊椎損傷者は日清・日露戦争で現実の存在となり、戦傷病者の医療体制の整備に伴い、脊椎戦傷者が臨時東京第一陸軍病院に集約された。整形外科と軍陣医療の接点が追跡されている。全くの門外漢に、脊椎損傷の「患者」の生成と変容、脊椎損傷医療の進展の歴史分析を正確に要約・紹介することはできないが、傷痍軍人から医学研究の対象者へ、そして、「社会復帰」が論点化され、「リハビリテーション」が再編成されていく過程が綿密な資料の掘り起こしとともに検証されている。

 脊椎損傷/戦傷者は、「国のために戦った傷病軍人」あるいは「パラリンピックの選手」として称揚される一方で、「医学研究の対象患者」「被験者」として実験の対象にされる存在でもあった。脊椎損傷者にとって適切な医療を受けることは生きるうえで所与の条件である。彼らは医療とともにどこで生活することができるのか、療養所、施設、自宅と迷いながら、最良の場所や方法を思案した。その過程で、自宅復帰者や就労する者が増え、自宅・社会・就労の環境整備の必要性を顕在化させ、制度の確立を求める立法化運動に結び付き、地域生活が当然のこととなるまで、模索しつつ、脊椎損傷者運動とその連帯が始まった。

 1959年10月、「全国脊椎損傷患者療友会」(療友会)(全国21支部750人)の発足がそれであり、後にその名称から「患者」が省かれ、1975年には「全国脊椎損傷者連合会」(連合会)に改称された。かくして、「患者」が医療変革の主体に関わっていくのである(本書では、「医療に介入する患者の出現」)。

 第Ⅱ部では、1999年に再生医療研究を推進するために日本で初めて設立された患者団体「特定非営利活動法人 日本せきずい基金」発足の経緯とその活動が追跡されている。

米国の自己管理ガイドブックの翻訳、疼痛の調査や脊髄損傷女性の出産・育児のガイドブックの刊行、呼吸療法や在宅リハビリの紹介、東日本大震災の被災脊髄損傷者の救援活動など幅広い活動である。

 90年代に世界的に本格化した神経再生医療研究において、この「せきずい基金」が嗅神経被覆グリア(OEG)移植、骨髄間質細胞移植などに積極的に関与していく活動を2章を割いて詳述し、「現在の再生医療研究を大きく枠づけている一面的な医療観および患者像を問い直す視点を提供することができた」と。また、―― 医療に包摂されるのではなく、むしろ押し広げていく力をもった彼らの歴史は、身体障害者の近代史として捉え直すこともできる ―― と。さらに、「今後の課題」として5点を提起している。その一つ一つを吟味する力量はないが、胎児組織利用の倫理問題をはじめ示唆を与えられる書であり、広くご一読を薦めたい。(伍賀 偕子<ごか・ともこ>元「関西女の労働問題研究会」代表)