エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』

小田康徳編著(阿吽社/2019年/四六判301頁)

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 旧真田山陸軍墓地ってどこにあるかご存知だろうか? 大阪市天王寺区玉造本町の台地上にあり、広さは15,077㎡である。創設は1871(明治4)年、日本で最も早く大阪に設置され、1945年の敗戦と陸軍解体に至るまでに軍と戦争に関わって死んだ人のさまざまの墓標が、軍の階級別または戦役別などに区画されて整然と並び、個人の墓碑数は5,091基以上にのぼり、日露戦争満州事変に関わる合葬墓碑が5基、日中戦争から第二次世界大戦終結までについては、別に8,249人分のデータをもって数えられる戦没者男女の分骨を納めた納骨堂が建てられている(納骨堂には、女性と思われる名前の方が少なくとも5人、看護婦長1人、陸軍軍属3人、所属記載なし1人が葬られている)。

 本書は、小田康徳はじめ「NPO法人 旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」に属する人々15名による執筆で編纂されている。本書に先立って2006年『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(小田康徳・横山篤夫・堀田暁生・西川寿勝編著/ミネルヴァ書房)が刊行されている。今回は、軍と戦争に関わって命をおとした人びと一人ひとりの存在を物語る墓標に注目し、書名にあるように、いくつもの「墓標との対話」を重ね、その生と死を語る他の史料を丹念に探し出して検証し(例えば出身地の自治体史など)、この墓地に葬られるに至ったその時々の陸軍や戦争の真実にきわめて具体的に迫る、貴重な歴史研究である。その一つひとつの探索・検証の尽力には、頭がさがる思いである。

 構成は、第一部:陸軍墓地の通史 第二部:さまざまな死者との出会い― からなり、第二部では、― 第1章:平時の死没者、第2章:西南戦争と大阪での死没軍人たち、第3章:日清・日露の戦争から大正期の対外戦争まで、第4章:十五年戦争と関わった人々、第5章: 真田山陸軍墓地を考える― の章立てとなっている。

 概括的な見出しに括られてはいるが、「さまざまな死者との出会い」は、旧陸軍とそれが主導した日本の戦争というものの重荷を一身に受け亡くなった人びとの生への思いと、今を生きる私たちに多くのことを投げかけている。― 最も古く葬られた人物と謎の死、生兵(せいへい)の死、平時死者の病死、陸軍と脚気、30年間神戸に眠っていた遺骨、京都府出身の西南戦争戦死者12人、陸軍墓地に眠る2人の水兵、日清戦争時の清国俘虜、第一次大戦におけるドイツ兵俘虜、日中戦争初期の将兵39人が1日で戦死・・・ 列挙して並べるには重すぎる史実ばかりであるが、国民的な「記憶の共同体」形成のために「保存を考える会」の人々が紡ぐ歴史の掘り起しである。

 「真田山陸軍墓地と関わった日々」の記録では、戦争の悲惨、悲劇を知らない次世代に史実を伝える活動として、墓地のボランティア案内や、高校教育での実践と、若い世代から返ってきた新鮮な感想が印象深かった。―「徴兵制度のあった時代の波に呑まれて、泡のように消えていった命を思います」(高3女子)「感じたのは、なぜこのような歴史のある場所があまり管理されず、激しく傷んでいっているのかということです。国や行政がさらに動き、守っていかなければならないと考えます」((高3女子)など―

 本書および「NPO法人 旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の活動は、「靖国神社」や各地の忠霊塔・忠魂碑において、「戦没者を慰霊する」という名のもとに「日本の対外膨張を肯定し、戦没者をその過程において評価する視点」が強調される風潮に対して、被葬者の死没の意味を歴史の峻厳なる検証を地道に重ね、そのありようを明確に対置している。

 2018年9月4日近畿を縦断した台風21号は、この旧真田山陸軍墓地に大きな被害の爪痕を残した。大きな木は幹が裂け、根こそぎ倒れて、墓碑の被害が甚大だった。すぐ翌日調査に行った「保存を考える会」は、管理している大阪市建設局管財課に対して、破壊状況の記録作成と復元するための基本的な注意事項5項目を申し入れた。その被害状況もリアルに記録されている。本来国が管理運営すべきことが自治体におしつけられているのであって、国は、歴史的にも重要な意味をもつものとして、墓地を文化財として認め、史跡として指定し、恒常的な展示施設を伴う研究施設を併設すべきであって、これらの対策が今までに取られていれば、台風被害も幾分かは緩和されていたのではないか― と本書は結んでいる。(伍賀 偕子<ごか・ともこ>元「関西女の労働問題研究会」代表)