エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『大原社会問題研究所100年史』

法政大学大原社会問題研究所編(法政大学出版局/2020年/A5判298頁)

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 社会科学分野において日本で最も長い歴史をもつ民間研究機関「大原社会問題研究所」は、米騒動など社会問題が深刻化する状況下、それに対応する研究機関として、企業家であり社会事業家でもある大原孫三郎によって1919年2月9日、大阪に設立された。

 それを報じた「東京朝日新聞」によると、―― 我国における労働者並びに労働問題の調査を為し其結果を出版することと先進国の社会労働問題に関する書籍の翻訳を為す事及右に関する講演会を開く事を第一事業とし、創設費として10万円余りを投じる ――と。

 東京帝国大学教授(当時)の高野岩三郎を訪ねた大原の高い志に同意し、初代所長就任以来、高野は1949年の他界まで所長を務め、研究所の基礎を築いた。

 研究所創設の翌1920年5月には、早くも『日本労働年鑑』第1集(大正9年版)が刊行されている。1942年~1947年の停止を除いて、今日まで刊行されている。研究所に「労働組合調査室」を設置して、年々の労働者・農民の状態、労働運動・農民運動その他社会運動の動向や各種政策について、客観的立場で記録する、「世界的に見ても十分にその存在を誇りうる年鑑となった」という評価の通り、この年鑑の刊行は、特筆すべきことである。

 また注目したいことは、1920年秋より、労働者を対象に「社会問題研究読書会」が大阪と東京で毎週1回ずつ開かれ、30回をもって1期とし、大阪では研究所の一室で2組の読書会が40名で高野を講師として開催。この読書会が大阪の社会労働運動の進展に大きな役割を果たし、後の「大阪労働学校」創設や、その講師陣も当研究所の陣容が担った。

 1922年には財団法人化して、独自の自治的な「学術研究機関」として確立する。様々な社会調査を手がけたが次第に出版事業に力が傾注され、マルクス主義の理論研究が進められ、社会科学研究の自由が奪われるこの時期、「きわめて特異な存在であった」と。

 大阪に創設後18年目の1937年に、研究所が「東京移転」する。移転についての大原・高野会談は、二人の病気もあって途中途絶えもするが、経済不況の中、大原側からの出資が困難であるという申し出が大きな理由であることは推測できる。1925年には治安維持法が制定され、政治的自由が極度に制限され、1928年の3.15事件の余波を受けて研究所が捜索され、その「存廃」が報道されるなど、困難な事態となる。本書によれば、―― 研究所が直接間接に労働運動の発展に寄与した。このことは、社会運動ではなく学術研究を推進するために研究所を設立した大原孫三郎の企図にないものだったように思われる―― とされている。大阪の社会労働運動に身を置く者としては、大いに気になることだが、「東京移転に対しては、大阪の労働団体が反対の意向を表明するなどの動きもあったが、既定方針通り移転準備が進められた」と記述されている。1936年、大阪を去るにあたっての「告別講演会」が朝日会館で開催され、1600人が参集した。

 東京移転は、戦時体制下での移転であり、盧溝橋事件発生以来、官憲の圧力がより厳しくなる中、自立態勢の確立は困難を極めた。1945年5月には米軍の空襲により研究所も類焼した。

 1949年7月法政大学と合併覚書を取り交わし、法政大学構内に移転。1951年には、財団法人大原社会問題研究所を設立。創立50年・60年記念事業を開催し、1986年には財団を解散し、多摩キャンパスに移転し、法政大学付置研究所となる。

 研究所の事業としては、『大原社会問題研究所雑誌』の定期発行が大きいが、研究所紀要の枠にとどまらず、社会労働問題研究に関する学術的専門誌として、投稿論文の外部査読制度も導入され、「開かれた研究所」をめざす努力が蓄積されている。

 毎年開催の「国際労働問題シンポジウム」も第16回よりILO駐日事務所と共催となり、創立90周年以降、国際交流事業も増加して、共同研究の成果も刊行されている。

 創立100周年記念事業も昨年2019年に開催されて、研究所発祥の地大阪でもその一部が開催されたことは記憶に新しい。

 「研究所のこれから」は ―日本を代表する社会問題の研究所として、貴重な所蔵資料を国内外の研究者や市民の利用に供することで社会的貢献を果たし続けなければならない―と、結ばれている。(伍賀 偕子<ごか・ともこ> 元「関西女の労働問題研究会」代表)