エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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所蔵資料紹介~辻󠄀保治資料(近江絹糸紡績労働組合関係資料)

連載第19回 職場新聞(12)『ぼこぼこ』その1 

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『ぼこぼこ』創刊号1面

 『ぼこぼこ』は、綿・スフ紡績精紡職場の職場新聞で、1956年7月に創刊され、辻資料には、創刊号から10号までが収められている(9号欠号)。

 精紡は綿・スフ紡績で前工程で製造された粗紡糸を精紡機にかけ、完成品の糸にする工程で、仕上職場と並び、人数の多い職場であった。当時、彦根工場の設備は、精紡機148台、65,184錘となっている(注1)。

 使用されていたのはリング精紡機で、粗紡糸を巻いた篠巻を上部の心棒に差し、引き出した粗紡糸をいくつかのローラーを通して延展し、回転する錘(スピンドル)に撚りをかけて巻き取る構造となっている。

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精紡機(朝倉克己氏提供,近江絹糸彦根工場,1955~1957年頃)

 労働者の主力は、二交替勤務で機械を運転する女性労働者で、他に深夜番と保全等を行う日勤者があった。仕事の担当は、「台付」「玉揚」「運搬」「保全」に分かれていた。台付の主な仕事は、糸継と篠替(注2)で、その日の受持ち台が決められた。糸が絡んで毛羽がくっつき、木管に巻きつかずに糸切れする状態を「ぼこぼこ」と呼び、担当台を廻っては、カマで絡んでいる綿を取り去り、糸をつなぎ直した。粗紡糸の巻かれた篠巻が空になると、新しい篠巻と替え、糸を継いだ。「玉揚」はスピンドルに巻き取った完成品の管糸を抜き、新しい空木管を差す。さらに台付とともに、新しい管糸に糸が巻き取られるよう糸継ぎをした。運搬担当は完成品の管糸を次工程の仕上に運ぶ。

 1956年12月、台付の受持台数を3台から4台半~5台半にすることが会社から組合に申し入れられ、職場は騒然となった。

デタラメや 便所にもゆけへん

(私)たちは、今迄台数増加の件でとても、もめている。今まで三台でもやっとだのに、四台半から五台半にすると云う。それも糸つぎ5秒、篠替え25秒、ラベットふき30秒こんなデタラメなデータを会社は出してきた。たゞ糸をつなぐだけならよいけれど、カラミとらねばならないし、糸だって一回でサットつなげるわけではない。篠巻だって途中で切れたり、また木管が落ちてきれたりする。(後略)」

『みんなでよもう人繊精紡 第2号(1)特報!!』(1956.12.29)より

組合は、技術の向上、機械の改善後に話し合いに応ずるとして受け入れなかったが、現場では、職制から個別で実態化が図られた。

責任をもつ、と腕のばした係長!!

  台持ちをのばさないで私たちスフがとてもきれるのに三台の所を三台半持ってくれと云って来た。持てないと云ったら私が責任持つからと係長は云ったのでこの日は篠巻は、かわるし糸は切れるのに持った。この日は便所にも行けず台掃除一回やっとしただけであった、係長さん人のいない時で台を止めてほしいと思う。私たちは機械ではないから東レのまねなんかさせないでくれ、手はふしだらけで、ぶさいくの手であるから嫁のもらいてがない。」

『ぼこぼこ』6号1面(1957.2.1)より

 この申入れ以前にも、暑さによる欠勤で出勤者の持台数を増やされる等の記事が多く、製品として出来高を問われる工程であった精紡で労働強化が進められていたことが分かる。

 

(注1)『人よこせ斗争の討議のために』(1957年1月25日)による。

(注2)台付の担当する仕事及び篠替についての記述は、『綿紡績作業基準』精紡科運転保全作業基準 十~十一頁 第六章台持方担任仕事 による。なお、篠替については、『ぼこぼこ』中に篠替専門班があったという記事もある。

(下久保恵子 エル・ライブラリー特別研究員)

 

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