エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『沈黙の扉が開かれたとき 昭和一桁世代女性たちの証言』

山村淑子・旭川歴史を学ぶ母の会編(ドメス出版/2021年12月/A5判318頁)

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 本書は、山村淑子とともに、北海道旭川で昭和一桁世代の女性たちが「戦争で奪われた学ぶ権利を取り戻したい」「女に生まれたということだけで奪われていた『私』の人生を取り戻したい」という動機から1978(昭和53)年に立ち上げた、自主的な歴史学習会「旭川歴史を学ぶ母の会」の活動記録から編まれている。

 東京で高校生に歴史を教えていた教員の山村が、夫の赴任で旭川に転居してすぐに出会った二人の女性から、「日本史の勉強の手助けをしてほしい」との申し出を受けて始まった(発起人=永山鈴子)。そして北海道新聞や市の広報を活用して、昭和一桁世代に参加を呼びかけて発足。学びたいという願いがどれだけ強いものであったかは、最終例会の2014年まで、36年間の例会(月1回)学習と調査活動が続いたことが示している。講師の山村は87年に旭川を転出しているが、その後も録音テープの往復で会活動は続いた。

 

<私たちの記録Ⅰ・Ⅱ ―「戦争体験」・「私たちが受けた教育」と「歴史認識」>
 昭和一桁世代(1927~1934年生まれ)は、「満州事変」が1931年に始まり、1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争開始と、戦争が日常化したなかで成長しており、1945年8月の「敗戦の日」の年令は11歳から18歳で、思春期・青年期を戦争のなかで過ごしている。「太平洋戦争」についての丁寧な学習を重ねたうえで、自らの戦争体験、敗戦体験を語り合い、それを次世代に伝えるために記録化したのが第一部である。開戦日のこと、学徒動員、勤労奉仕疎開、敗戦日のことなど、20名余の女性たちの具体的体験が自らの内面的な振り返りを通して対象化されている。

 書名の「沈黙の扉が開かれたとき」は、戦争の被害者意識からだけでなく、戦争に参加したことの客観的振り返りについての熱い相互議論がなされた時を示している。女学校時代、「お国のために」使命感をもって「お国に尽くした」が、兵士として動員された男性たちに対して、「直接お国のために尽くしているという実感がなかった」「男に生まれていたら、鉄砲を担いで戦いたかった」と、心のうちに秘められていた「本音」が表出した瞬間だった。学徒動員や勤労奉仕の「働き」の先にあったのは、アジアの人々への侵略である「戦場」だったことに気づいた。その衝撃と気づきを「忘れることのできない日」と題して記されている。そして、戦争体験をどう生かしていくのかの課題を抱えて、自己変革の過程を歩む学びと討議が重ねられた。

 戦争中に学校や新聞などで受けていた情報と、この学習会で知った事実との差に「深い憤り」を感じ、「教育」というものがどんなに大きな意味合いをもっているかを実感したのだった。「私たちの記録Ⅱ」は、会員の戦争体験を踏まえて、「教育」の側面から日本の歴史を学びなおした記録である。教育を受けた側からだけでなく、国民学校の女教師であった会員の戦時期教育と戦後民主教育の間での戸惑いと自戒の記録も含まれている。

 さらに、侵略戦争の支え手となっていった原因は何であったのかの手がかりをつかむ一つの方法として、「教育に関するアンケート調査」を会員の周りの人々100名に協力依頼している。その集計結果も非常に興味深い。

 第三部は、「あたりまえの人々」の声を聞く資料編となっていて、上記のアンケート報告や、「歴史的事件六項目」についての聞き取り調査が組まれている。

 

<戦後女性史における貴重な足跡>
 字数の関係で個々の展開を追うことは出来ないが、講師の山村は本会の活動の意義を以下のように記している。 

~ 歴史を学び自分自身で考える力を付け、女に生まれたというだけで奪われていた自己を確立しつつ、自らの体験を後世に伝えることを目標に掲げて生きる力に変えていった「旭川歴史を学ぶ母の会」の女性たちの存在は、細やかではあるが、戦後女性史のなかに貴重な足跡を残したといえよう ~と。

さらに山村は、これらの活動の意義を普遍化しつつ、「地域女性史とオーラル・ヒストリー」という論考を「まとめに代えて」として、重要な問題提起をしている。(初出:『歴史評論』№648/2004年4月)。(伍賀 偕子 ごかともこ)