※2025年1月22日追記:配布分は無くなりました。ありがとうございました。
本書を無料配布中です。詳しくは最後の段落をご覧ください。
本書は、大阪府高槻市にある富田町病院院長であった小西弘泰氏の「自分史」です。1937年生まれの小西氏が口述によって自分史を語り、医療法人庸愛会理事・林田吉智氏が編集されて本書は陽の目を見ました。
小西弘泰氏は1937年京都市に生まれ、医師であった父の仕事の都合で中国大連で育ちました。敗戦後3年経って一家は日本に引き揚げ、弘泰さんは京都大学医学部に進学して学生運動に邁進しました。ちょうど60年安保の時期だったので、医学部自治会委員長としてデモ隊を指揮している勇ましい写真が掲載されています。
卒業後は医局に入らず、社会運動と医師の仕事を両立させる道を選びます。二つの病院で働いたあと、請われて富田町病院の前身である富田町診療所に理事長・所長として入職します。1966年のことでした。ずいぶん若い所長であることに驚きます。この時に診療所を医療法人にして「庸愛会」を設立しました。
小西氏は医師の仕事を半分、残りは社会運動家として松下電器などの若い労働と学習会を持ったりしていました。労働者の町であり、被差別部落もあった地域なので、住民とともに社会運動に取り組んでいったことが語られています。高槻市で起きた反公害運動にも参画しました。
本書で富田町病院に赴任した小児科医・幸寺恒敏医師の名前を見て、わたしの個人的な記憶が蘇りました。わたしの第1子は重症のアトピーっ子で、病院を転々としましたがアレルゲンもわからず治療の甲斐もないという状況が続いていました。そんな時、富田町病院の幸寺先生が画期的な治療法を実践しておられるという情報をどこかから得て、1993年当時2歳になったばかりの子どもを連れて大阪市の南部から高槻まで治療に通いました。第2子が生まれて間もない時だったので、乳幼児を2人連れて移動するのは大変でしたし、やんちゃ盛りの上の息子にも手を焼きました。そんなことが思い出されてとても懐かしいです。
富田町診療所は1982年に病院へと生まれ変わりました。その過程の苦労話はぜひ本書を読んで確かめていただきたいです。移転先に病院を開設して後も地域住民のために奮闘する姿は変わりません。病院は往診をしないというのが医師会の取り決めだったのが、富田町病院は例外として認められ、診療所時代からの往診をずっと続けてきました。これにより在宅医療が今日まで継続できています。
地域医療活動の実践などの素晴らしい成果が語られますが、一方で1985年には病院の医療過誤により1歳児を死なせてしまうという事故も起こしていることが語られています。やがて1999年には小西医師は高槻市議会に立候補し、見事当選。介護保険制度の改善などを訴えて3期を務めました。
本書には、地元住民・木下廣子さんの講演録も付録されており、住民の目から見た病院の活動がよくわかります。病院開設の際は住民たちが資金を出しあったこと、その後も患者さんや住民とともに健康・環境問題だけではなく戦争反対の学習会も持ったことなどが語られています。
本書は50頁にも満たない小冊子なのですが、中身がぎゅっと詰まっているので、読みごたえがあります。5部頂戴していますので、当館メールマガジンの読者1名に郵送プレゼントいたします(希望者多数の場合は抽選)。残り3部については来館されれば差し上げますので、下記リンクからお問い合わせください。→2025年1月22日追記:配布分は無くなりました。ありがとうございました。(館長・谷合)