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『わが生涯−勝間芳江の八十年』

 本書は、勝間芳江の傘寿を祝って発足した出版委員会(代表;立山寿幸・永久睦子)が聞き書きを中心にまとめたもの。構成は「1.勝間芳江のあゆみ」「2.座談会」「3.勝間さん大好き」「4.年譜・勝間芳江とその時代」「5.市議会活動から」「6.若い人に望むこと」となっている。
 勝間芳江は1908(M41)年10月大阪府堺市で誕生。18歳から58歳まで堺市教員。1967年に初の女性堺市会議員となり1983年74歳まで3期務める。部落解放運動、日韓連帯を始め、関西の幅広い市民運動で大きな役割を果たし、大阪府水平社結成80周年を記念して特別功労表彰された。2010年、92歳を迎える。

 「わては戦犯だんねん。ようけの教え子をば戦場に送りだしてしもうて」「過ちを心に刻んで、二度と繰り返してはいけない」「決して他者を痛める側に立つな」という哲学がすべての活動の原点で(「おわりに」より)、人の心を打つ。
 教員時代の聞き書きでは、敗戦直後の価値観の転倒が教育現場にどのように表れたか、「民主主義」や「新しい憲法」がどのように沁みこんでいったかが、しみじみと語られている。敗戦2年目に堺市の教職員組合が結成され、芳江は請われて婦人部長に就任。初の女性小学校校長を誕生させることに尽力。
堺市市会議員時代には、学校給食を4日から5日へ、幼稚園に専任養護教諭の配置、障害児の教育施設「榎ハイム」の設立、夜間中学の設置等、彼女の教育者としての哲学や見識がフルに発揮された。組織型選挙ではなく、教え子をはじめとする幅広いネットワークで高位当選したが、途中1期落選、しかし71歳で再挑戦して見事カムバック。さらに、1987年には、自らの後継者として、女性府会議員と堺市市会議員を誕生させる快挙の先頭に立った。いずこも後継者不足に悩む中での見事な次世代継承であった。
 1975年から「日本婦人会議大阪府本部(後に「I(アイ)女性会議」に改称)議長となり、「国際婦人年大阪連絡会」や「部落解放府民共闘」及び「同婦人連絡会議」などの女性運動・市民運動や「大阪消団連」運動で、ユニークな役割を果たす。その飾らないフランクさと優しさに「自分の心が開いてきた」と語る早田末子・部落解放同盟府連元婦人部長の言葉が、共闘の中での勝間の役割を浮き彫りにしている。婦人会議の事務局長として、勝間議長と長年コンビを組み後に府会議員となった山中きよ子が「はじめに」で勝間から聞いた言葉を記している。「あんたらな、難しい事ばっかり言ってるけど、人間ちゅうもんはなー、汚い泥水のんでも、きれいな水にして吐き出さなあかんのやでー」。他の人には真似られない人となりである。
 特に、朝鮮半島の人々との連帯運動に力を傾注し、大阪日朝共闘議長として訪韓をはじめ、「朝鮮の自主的平和統一を支持する大阪婦人の会」などのシンボル的存在となり、チョン・テイルの壮烈なたたかいとそのオモニ=イ・ソソンを描いた映画『オモニ』上映運動の中心的役割を果たし、1989年には、このイ・ソソンと勝間の会談が実現して、熱く報告されている。指紋押捺拒否者支援や在日韓国政治犯救援運動をはじめ、FAX1枚で労働者全員解雇を言い渡した日本企業亜細亜スワニー労働組合支援の現地行動の先頭に立つ姿が口絵写真にも掲載されている。
 3章「勝間さん大好き」に言葉を寄せられている約50人の方々には、日韓・日朝運動の人たちが多い。他にも実に多彩な分野から寄せられているので、いくつか印象的な部分を引用して、人となりに触れたい。

  • 本多立太郎・「わんぱく通信」編集長;こういうお人を相手にしなければならなかった大阪の役人や経営者たちは随分しんどいことだったろう。強面で大声はり上げる相手ならやりようもあるだろうが、ニコニコと、あんさん一寸待っとくなはれや、などと、あの温顔で、しかもキラリと光る眼で見つめられたりしては・・・(略)
  • 下垣内博・全大阪消団連事務局長;(カネミ油症事件を語るなかで)勝間さんの「権力をもつものの非道を許さぬ正義感―怒り」一方、被害者には同情ではなく、「生き方に学ぶ謙虚さ」をもたれ、同時にその苦しみを自らのものとして受けとめる「優しさ」をもっておられる・・・(略)

 二つの座談会も、若い人を魅了する優しさと思想が余すところなく披露されており、「年譜・勝間芳江とその時代」には、大阪の多彩な運動と彼女の歩みが網羅されている。(伍賀偕子)

わが生涯 /「勝間芳江の歩み」出版委員会編発行, 1990, 272p 19cm)



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