『透徹した人道主義者 岡崎精郎』

吉田 文茂 著 (和田書房/2008年10月)

 高知県高知市春野町秋山にある「種間寺」(四国88ヵ所第34番札所)の境内入り口にひっそりと佇んでいる「岡崎精郎先生の碑」には以下のように記されている。

「1898年 秋山村に生る 1938年 高知市に没す
 あなたは りっぱな詩や絵をかかれ すぐれた芸術家であった
 あなたは 同和問題に力をつくされ 偉大な社会教育家であった
 あなたは 農民運動に生涯を捧げられ 農民の父としてしたわれた
                   衆議院副議長 杉山元治郎」

碑は、民衆とともにあり続けた岡崎精郎を慕う無名の農民たちによって1957年に建立された。岡崎精郎の人生は、この碑に刻まれた言葉に尽きるが、本書は、40年足らずではあるが、駆け抜けた人生を、三つの時期に分けて詳細な資料にもとづいて描いている。
 まず、画家として精進していた10歳代後半から20歳代前半の時期=「第1章 画家へのあこがれ、そして挫折」。麗子像で知られる岸田劉生に師事し、新進気鋭の画家として将来を嘱望されていた。岸田劉生からの独立を意識する過程は、白樺派の思想に傾倒し、自己の人生哲学を模索する時期でもあった。直接的には体調不良を機に人生の転換を迎える。

 第2期は20歳代後半の時期、人道主義者として自己犠牲的な社会奉仕に没頭する時期。
画家を諦め、故郷秋山村での療養生活を経て、自らの思想として育んできた人道主義の思想にもとづいて、平等な社会の実現のために、社会の矛盾の中へ自己を投企し、社会変革の道を模索していく。部落解放運動と出会う精郎は、1930年前後から、融和団体秋山村兄弟会の結成、秋山村隣保館の落成、高知県差別撤廃期成同盟の結成と、矢継ぎ早に実践し、隣保事業の実施と差別言動取締令制定運動の二つの運動を軸に没頭する。思想的には、当初は、階級闘争に傾斜する水平運動には批判的態度であったが、融和運動に対しても、微温的態度を排しており、「差別の絶対的廃止へ」の一文では、部落差別根絶に向けて、資本主義制度を廃止する運動の展開を主張している。思想的には社会主義的傾向を有しつつも、行動面では現実的対応を探った。

 第3期30歳代は、秋山村長に就任し、農民組合委員長として社会運動に邁進する時期。
1929年小作農民を苦しめる米穀検査=“米検問題”が秋山村にも波及し、秋山農民組合が結成され、岡崎精郎が組合長となり、やがて反米検運動の指導者として担ぎ出される。
彼の手によるとされる「秋山農民組合」の一文には、結成理念が記されている。
虐げられてきた農民の歴史から説き起こし、明治期になっても「労働の鉄鎖」によって「貧窮のどん底」にしばりつけられている状況は変わらず、普選の時代となった今こそ、農民の目覚める時であり、農民は「人類に奉公する神聖なる労働者」であることを誇るべきであると。「立て! 同胞よ。吾等は絶対の人間権をもつ。」とうたっている。この反米検運動の真っ只中に1929年7月、秋山村村会議員選挙がたたかわれ、農民大衆に推されて岡崎は村会議員となり、さらに、悪法米検を村民に強制せんとする村長を倒し、その椅子に座ることになる。「秋山村における最初の普通選挙」としても重要な意義をもっていると記されている。岡崎の村政運営は、村民の利益に結びつくか否かの判断基準に徹し、県町村長会議でも、家屋税の変更や小学校教員俸給減俸問題で論陣をはって、イニシアティブを発揮している。社会主義社会という真に平等な社会を実現する構想を抱いて村政に携わっている。

第5章では、「農民運動家」としての足跡を追っている。村長在職のまま全国農民組合高知県連合会委員長に1932年7月に就任している。地主による小作地強制取り上げに対抗して強制執行地に大衆動員をかけ、地主が蒔いた麦・紫雲英を鋤き返し、改めて麦の種を蒔いた=仁西争議で全農県連の役員大半が検挙され、岡崎精郎も検挙され、獄中生活をおくることになる。村長不在という不測の事態に対し、在郷軍人会が蠢き、金持ち地主階級が村議会を制し、「無産村秋山」の時代は終る。
検挙に続く獄中生活は11ヶ月に及び、病弱な身体を蝕むことになるが、民衆に依拠して民衆に奉仕する自己のあり様を確固たるものにする、「第2の思索の時期」ともなった。
1934年以降、寸暇も惜しんで、農民運動、部落解放運動、政治運動(県会議員)、医療組合運動に奔走し続けた。県会では、農村問題や部落問題などに集中して、差別され抑圧せれていた人々の復権を求めた。死ぬ直前まで尽力した「大衆診療所」開設運動では、全財産をつぎこんで医師を確保し、民衆のための医療のあり方を考究し続けた。

晩年、若き時代に取り組んでいた絵画活動も再開していた。そばにいる人びと、多くは同志の人物画を描き、生活費や行動費を得る販売活動を弟和郎が担った。「民衆と共にある画家として、対象となる人びとを描く精郎の筆致の温かさをうかがい知ることができる」作風とされている。1938年1月に逝去、同年7月には「岡崎精郎氏遺作絵画展」が農業会館で開催されている。

 短い人生を突っ走った岡崎精郎の生きざまは、雑誌『生命』で述べた「人道こそ吾等の宝。吾等人間性の原理。吾等の価値の標準は人道にある」の言葉に貫かれていると言える。

 岡崎精郎に関する資料群は、高知市立自由民権記念館に寄贈され、『高知県社会労働運動関係目録』の中の「岡崎精郎・和郎関係資料目録」が完成されている。(伍賀偕子)