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『へこたれへんで 竹内眞理子さんの七十三年を聞く』

(竹内眞理子聞き書きの会/私家版/1999年)

 婦人民主クラブの最初の頃からの会員で、いくつもの大阪の市民運動に関わり、晩年は居住の高槻市で他界するまでひたむきに活動を続けた。戦後の高揚期からの運動と73年の生きざまを聞き書きした130頁の冊子。大阪弁の語り口がそのまま活かされている(*聞き書きの会メンバーは、尾形弥生、岡崎義子、北尾亜由子、木村春代、二木洋子、桃木野喜代巳)。
 1926(T15・S1)年、大阪市天王寺区で新聞配達人の長女として誕生。2000年9月、高槻で逝去74歳。2001年10月1周忌に高槻で「偲ぶ会」が催された。

 空襲にあって焼け出され、尼崎市で敗戦を迎える。浪花高等女学校卒業と同時に寺の跡取りと結婚したが、男の浮気を知って実家に帰るという、20歳で辛い体験をし、以降独身を通した。弟の竹内啓は、1961年夏の甲子園で優勝した時の浪商高校の監督だった。その思い出や弟妹に敬愛されていたことなども、聞き書きからうかがい知れる。

 1947年神戸税務署所得税係に勤務し、全国財務労働組合(全財)の中央闘争委員に選ばれ、東京に半年常駐し、2・1スト中止直後の戦後労働運動の高揚を体験する。
 2・1スト中止の翌1948年、賃金引上げ・生活補助金支給を掲げて、全財は全国一斉休暇ストを実施。ストが禁止された中でのスト決行で、委員長・書記長ら中闘委の6人が首を切られ、1人は「占領目的違反」で軍事裁判にかけられ、刑務所に。この2年間を中闘委としてたたかった体験は、彼女の誇りとなっている。
 半年後、神戸税務署資料係に職場復帰したが、1949年レッドパージで神戸税務署を追放され、「経理指導協会」で複式簿記の指導や協同診療所等、経理畑の仕事で生計を立てた。妹の奨めで当時流行しはじめた洋裁を学び、洋裁学校で教えるのと2本立てで生活基盤を維持した。レッドパージは一つの職場からの追放だけでなく、各人の生活基盤を生涯にわたって根こそぎ奪う理不尽な攻撃だった。この部分も貴重な証言である。
 敗戦直後1946年にどの女性団体よりもいち早く創立された「婦人民主クラブ」は、1948年東京常駐時に訪ねて以来、彼女の生涯の活動拠点となった。共産党の50年分裂のあおりで婦人民主クラブも組織の危機を迎えたが、1951年兵庫県中山寺で臨時大会を開催して大衆団体の自立を守り抜いた。26歳の若き彼女の貴重な原体験となった。
 婦人民主クラブ大阪府協からの派遣担当者として、いろんな市民運動の場に参加し、いつも裏方の地味な役割を担った。合成洗剤追放運動や、ニッソール農薬裁判、農薬空中散布被害の「かいこ」裁判、琵琶湖下水処理場建設反対環境権訴訟原告団、値上げ反対京阪神行動委員会、大阪消費者団体連絡会(大阪消団連)等、数々の市民運動に参画し、記録では残されてないようなエピソードも多く語られている。
 1969年2月に住民票を高槻に移し、晩年は高槻に根をおろして、“寝民から市民に”なり、市議会不正出張訴訟控訴人代表、高槻自主講座、「毒ガス展・高槻」等に参画し、これらの運動の中から、市民派女性議員を誕生させる運動に深く関わった。「政治を変えるためにはまず女性議員の数をふやすこと。政治の正面に立つ女性たちを裏から支え続ける役を今後もやっていきたい」と熱っぽく語っている。 
 彼女の人生にとって、日本共産党との関わりは見逃せない。1947年入党し、党の指導のもと労働運動に献身するが、党の50年分裂で「国際派」として除名された。1955年の「六全協」でそれらのメンバーは復帰し、彼女も兵庫県委員会の婦人対策で活動した。この秋頃、警察から職場へ電話がかかってきたということで、身に覚えのないスパイ容疑をかけられ、県委員会に査問された。たった一人「20人ぐらいから輪になってウワーッと」追及される中で、精神状態がおかしくなり、躁鬱病という診断により、奈良の民医連関係病院の精神科に6年間入院。この間の記憶は殆どないそうである。後に聞いたことだが、仲間2人が「まりちゃんはそんなこと絶対ない」と反証した。以降、仲間の中でも、精神障害に対する差別意識に傷つけられることが度々あった。また、所属する婦人民主クラブに対する党の指導でも何回かぶつかり、仲間と共に大衆運動の自立を守り抜いたことは、彼女の大切なアイデンティである。2度も除名された党だが、やっぱり“わが家”意識があってよりよく変わってほしいと願っていると。(伍賀偕子)


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