本日、映画「キリマンジャロの雪」を語る茶話会を開きました。
この作品、労働を専門とする当館には非常にフィットする題材・内容であり、大勢の方に見て頂きたい良作です。そこで、上映期間中に急遽プチ語る会を持つことにしました。
参加者はこの映画の宣伝をされている松井寛子さん、長年労働運動・労働組合運動を実践されてきた安田信夫さんと伍賀偕子さん、公務労働者Yさん、エル・ライブラリーの谷合と千本。
全員で一致したのはこの映画のキャッチコピーが「違う!」ということ。(キャッチコピー参考:たとえ貧しくても やさしい心さえあれば たとえ貧しくても 思いやる心さえあれば 世界はあたたかい)。いい方向でキャッチコピーを裏切ってくれる奥深い作品です。
また、茶話会に先立ち、谷合が個人ブログに感想をアップしましたので、「「吟遊旅人:blog版」をご笑覧ください。
以下に侃々諤々(かんかんがくがく)の茶話会を抄録。ネタバレまくりですので、映画をご覧になっていない方はご注意を。
Y
- 作中の公務労働者について。警察官=暴力・建前の象徴。クリストフの母とマリー・クレールが対峙する場面、児童相談員を揶揄するセリフ。公務員が貧困層からどんな目で見られているかが如実に表れていた。しかし、映画『プレシャス』にあったように寄り添って支えていくこともできる存在だと思う。私は公務労働者として30年働いてきたが、この間なにをやってきたのかと反芻、そしてこれからなにができるのかを考えていきたい。
安田
- 身につまされた。自分の子どもたちに見せたらきっと「父さんと母さんのことだ」と言うに違いない。クリストフのセリフ(「クジ引きは間違っている」)が痛かった。
- クリストフの弟たちがクリストフがいなくなっても生活できていたことに、下町の許容を感じた(近所の女の子のサポートなど)。保護司をしているが日本ではなかなか望めないと思う。
- マリークレールとミシェルがクリストフの弟たちを助けるのに共感。あの雰囲気は非常にわかる。マリークレールが弟たちを寝かしつけるシーンが特に泣けた。
- ミシェルの子どもたちの親たちへの非難。うちでもそうだし、どの家庭でもそうだろう。
松井
- 試写で見たので先入観なしでみたので、冒頭のくじの場面は新鮮だった。
- マリークレールが自立している。ミシェルを理解している。
- ミシェルがクリストフと面会できた件(谷合ブログ参照)。自分も不思議に思い、フランスの事情に詳しい人に聞いてみた。パリなどの都会は無理だが、マルセイユのような田舎町なら個人裁量で可能ではないかとのこと。
伍賀
- キャプションが見にくく、ディテイルは後からパンフレットなどで確認した。当初組合をカリカチュアしすぎなのではないかという感想が強かったが、映画を見た直後よりも後からじわじわとくるものがあった。
- クリストフの最後のセリフに疑問を感じた。労働組合ならきちんと調査を行って労働者の状況は把握しているのではないかと思うので、短絡にクジ引きを行ったとは思えない。クジ引きを行うまでの苦悩が描かれていない。機会の平等だけではなく結果の平等を追求すべき。クリストフの組合に対する一般的な批判はそうかなと思う。
- ミシェルの半生を賭けた労働者としての生き方を描き切れていない不満がある。
千本
- クジ引きのシーンで労働者の名前にアラブ系のものがあった。フランスの労働者の事情について端的に表現。
- ミシェルが20歳の自分たちが今の自分たちを見たらどう思うか、という問いにマリークレールが「プチ・ブルジョア」と答える場面。この言葉に彼らが感じる屈辱感を若い世代が共感することはないのではないか。また、日本の観客は一層「階級」という視点を看取することは難しいのでないか。
- ミシェルの子どもたちの自信のなさ、不安感がよく描けていたと思う。
谷合
- だいたいの感想はブログの記事を読んでいただきたい。
- 組合をカリカチュアという伍賀さんの意見について。監督は組合のことを知りすぎているのだと思う。説明が不足していると思われる場面がいくつか見受けられたが、監督にしてみれば自明のことなので説明する必要がないと思っている。また、すべてがわかる必要もない。
安田
- 自分は人間性という面からしか作品を見ていない。その上でミシェルを動かしているものはなにかと考える。労働組合ではない、労働運動としてではなく、生き方としてどうかと。ミシェルやマリークレールが弱者に手を伸ばし、義弟のラウルや妹が許す、その生き方・人間に対する価値観はなにか。この世代のゆとりなのかも知れない。自己満足なのかも知れない。しかし、自分には非常に自然に感じられる。自分がクリスチャンであるからかもしれない。
谷合
- 善意は美しい。しかし、ほどこしは受ける側のほうがつらいかもしれない。彼らの今後のことを考えてしまう。
安田
- 弟たちがクリストフの犯罪を後々知ったらどうなるか。
伍賀
- クリストフの弟たちに悲壮感がないのが印象的。子どもが生きていけるのは周辺の扶助があるからではないか。
谷合・松井
- 映画のキャッチコピーと内容が違う。いい意味で裏切られた。
谷合
- ミシェルが「自分が悪かった」と反省できる点に感動。ミシェルは内省的にものごとをとらえられる人間で、高い知性を備えている。クリストフが今後この知性をもってくれるか、ということを考える。映画で描かれなかった「その後」は自分たちの社会へ照射される問題であり、今の日本の状況をも映し出している。
伍賀
- 自分の人生を全否定されたミシェルが、苦悩し、それを乗り越える。
安田
- 「全否定」というのとは違うと思う。
松井
- それを受け止めるだけの度量がミシェルにはあった。知性が必要。
伍賀
- 「知性」というのとはちょっと違うと思う。
千本
- 「知性」という言葉の定義がそれぞれ違うのでは?
谷合
- Yさんの発言も自分の公務員という仕事にひきつけての内省だった。
- この作品は堅くてもそれが硬質なきらめきを放つ場面があり、またおもしろいセリフのやりとりがあったり。
Y
- この作品ではふたつの場面が転換となっているように思う。
- ひとつはミシェルがクリストフを殴った場面。いわゆるダラ幹などと言われるいわれはなく、個としては恥じるところはない、けれども社会運動としての労働運動はどうか、ミシェルの葛藤。殴った痛みはミシェルの痛みである。
- もうひとつはバーの場面。バーテンダーの世知的な知恵。文化的な知がマリークレールがふっきれるきっかけとなり、解決の出口を与えた。フランスの文化とイデオロギーとがうまく統合されていた。
みなで口々に
- バーのシーンのフランス映画らしさ。マルセイユの町の描写など。
千本
- マリークレールたちが伝統的なマルセイユの手作りの料理を重ねているのに対して、クリストフたちがハンバーガーショップにいく対比。
- クリストフの家のドアが開いているのは意味があるのか。
- クリストフの犯行の動機にどれだけ解雇の件が深度をもっているのか。
安田
- クリストフの家のドアが開いているのは、近所の人が出入りできるようにではないか。共助が可能。
谷合
- 鍵が開いているのは特殊なのでは(登場人物たちが鍵が開いていることに驚いていることから)。
安田
- クリストフの動機としては、単純にせっぱつまっている、というのがまずあるのではないか。一番手近なところをねらった。2件目にねらっていた事務所の件からしても。
伍賀
- 上の世代への若者の不信感というのがある。
谷合
- 確かにそう。クリストフは冒頭のクジ引きのシーンで首をかしげ、ふてくされた様子ででていった。これが伏線になっていて、すでに彼の不満は表されていた。