エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『宇田川文海に師事した頃の管野須賀子』

 堀部功夫著(日本古書通信社/2019年/B判321頁)

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  あの大逆事件(1910~11年明治天皇暗殺計画容疑で多数の社会主義者が逮捕・処刑された)で、幸徳秋水ら12名が処刑されたが、そのうち、女性は管野スガ一人のみだった。

 その管野スガについて、「宇田川文海に師事した頃」と限定して、先行研究を丹念に検証した興味深い書である(本名スガ、筆名須賀子以外にもある)。

 著者は、多くの管野須賀子の研究や記述について、戦後発表された荒畑寒村の『寒村自伝』が論証なしにそのまま引用されていることから検証を始めている。

 寒村によれば、須賀子が大阪の小説家宇田川文海に師事して小説家を志し、文海の力に頼って拙い小説が新聞に載るようになって、父と弟妹の一家を支えたが、「やっと一家を支えるだけの金を得るためには、文海の力に頼らねばならなかったと共に貞操をもって払わねばならなかったのである」というくだりである。文海と離れて新聞記者となってからもいろいろな男と浮名を流すようになって、「そういう生活に対する反省と反撥とから、キリスト教徒となって大阪婦人矯風会の林歌子女史に引き立てられ、京都に移り住んで同志社教師の英国婦人に日本語を教えていた」と記されている。寒村自身も一時期須賀子と内縁関係にあり、大筋は須賀子の直話に発している。

 以降、1950~60年代の何人もの管野研究を検証しているが、「寒村記述の影響は大きい」と跡付ける。その一つに、神崎清(1950)は『寒村自伝』が「スガの思い出を描くにあたって、妖婦性だけを一方的に強調し、彼女の革命性を語らなかったのは極めて遺憾であった」と。

 また、清水卯之助が、須賀子の伝記研究上画期的な仕事を残していると指摘。須賀子が大阪天満教会で受洗したことを、「大阪天満教会百年度」に見つけ、受洗年月日は、明治36年11月8日であることをはじめ、根本史料および関係諸新聞の徹底調査による須賀子伝を発表しはじめ、『菅野須賀子全集1~3』を編集刊行する。

 須賀子の革命性を、荒木傳と大谷渡が追求する。荒木傳「情炎の革命婦人・菅野須賀子」(『大阪新報』1980年のち『なにわ明治社会運動碑』柘植書房/1983年)がそれである。

 そして、大谷渡は『菅野スガと石上露子』(東方出版/1989)である。「管野スガは宇田川文海の妾などではなかった」と断言する。二人は子弟関係であって、宇田川の思想=民権左派の思想が、彼女をキリスト教徒へ、ついで社会主義へと向かう導火線となったのであると。寒村著作およびそれを基礎とする従来の伝記的研究にみられる須賀子像を「虚像」と一蹴する。また、社会主義運動に入る以前の管野が草分けの女性記者として、『大阪朝報』で縦横に筆をふるった事実を綿密にあとづけて、管野像を豊かなものにしたと。

 しかし、著者堀部は、「妾などではなかった」説は、― 学的検討の未だ行われていないうちに、市民権を得てしまった― と述べている。大谷自身の以前の記述では、「愛人であった」と書いているのに、根拠と自己批判なしに自説を廃棄し転換していることを、「そのまま受け入れることは出来ない」と批判している。ただ、「寒村の須賀子妖婦性強調は、二人が恋に落ちた田辺時代以後のことなので、文海師事時代に限る拙著はこの点に深入りしない」と。

宇田川文海の思想についても、「女性解放論者・文海」説の検証も、天理教誌『みちのとも』での廃娼運動賛成論やその後の論述を挙げて、須賀子からの影響が強いのかの検索もなされているが、字数の関係上省略する。

 本書が大部なのは、発見された須賀子著作の、『岐阜日日新聞』に掲載された(明治37年)「白百合」と「理想郷」の復刻版が付録として収録されているからである。当時の連載がどのようなものであったかを実際に見ることが出来て、とても興味深い。

 著者の研究手法は、先行研究を鵜吞みにせず、探書、訪書、蒐書に徹していることが、歴史を紡ぐ事業として、学びたい姿勢である。(伍賀 偕子<ごか ともこ> 元「関西女の労働問題研究会」代表)