エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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「知られざる運動家たち(2)桂あや子」

「知られざる運動家たち(2) 桂あや子」(戦後労使関係史余滴 第38回)

仁田道夫 [著](『中央労働時報』1307号28~31頁/2023.9/B5判)

 公益社団法人全国労働基準関係団体連絡会が発行する月刊紙『中央労働時報』は、「労使関係と労使紛争の専門紙」として1946年9月から毎月発行されてきている。そこに「戦後労使関係史余滴」コラムが30回以上連載されていて、東京大学名誉教授の仁田道夫が執筆している。労働運動家や労働行政官僚・労働委員会事務局職員、使用者側の人物に続いて、1303号から「知られざる運動家たち」シリーズが始まり、初回は「辻井民之助」が登場。友愛会・総同盟の古参の活動家だが、活動舞台が京都であり大阪や神戸における大争議の舞台に登場することが少なかったので、「知られざる運動家」として取り上げられている。

 第2弾として、「桂あや子」が登場する。今後、どなたが取り上げられるか興味津々だが、桂あや子については私自身が何度か聞き書きさせていただいているので、嬉しくて、皆さまに紹介する。

 桂あや子は1921年(大正10)年に生まれ、1939(昭和14)年18歳で大阪市営バスの車掌に就職した。戦局が激しくなって男たちが兵士に駆り出され、ガソリンの供給もままならない状況下に電気自動車が導入されて、当局は女子運転手を養成し、桂も試験を受けて1944年から敗戦まで運転手として乗務した。「敗戦」*1の前日8月14日の京橋大空襲時にも運転中で、「九死に一生を得る経験をしている」と、1行で記述されているが、詳しくは、桂あや子手記『戦禍の語部―残された者の記録』(時事通信社、1978)に衝撃的な証言が残されている。

 戦前の大阪市電気局労働運動についても、高野山籠城の大争議や産業報国会移行後の活動など、興味深い記述があり、1933年メーデーにおける女子車掌らのデモ練習風景の写真(上の写真。エル・ライブラリー所蔵)とともに、女子労働者においても大交労働運動の伝統が受け継がれていたことが述べられている。

 組合運動家としての桂については、戦後大阪でいち早く11月15日に結成された大阪交通労働組合(交労)(後に職員組合=交職が結成され、3年後に「大交」となった)において、初代婦人部長となっている。当初は男性が部長だったが、女性たちの話し合いで桂が選ばれた。桂が特に力を入れて頑張ったのは、辛い思いをしてきたバス車掌達の強い声を背景にした「有給の生理休暇」獲得で、男性の抵抗をのりこえて、労基法制定前の1946年4月から乗車勤務3日、机上勤務2日の制度化を実現している。

 また、1947年占領軍からの200両払い下げによって、市バスの運行体制が再建される時に、当局が男子車掌募集を打ち出し、そのポスターを見せられた桂は、「女の職場は女が守らなあかん。男に渡したら女の職場は無くなってしまう」と「待った」をかけて、婦人部の皆で一人が一人を紹介する運動を展開して、女子車掌を確保した。「さすが組合やな!」と当局に言わしめたことを、桂は「自分の組合活動で一番誇りとするところである」と言っている。

 敗戦の翌日、進駐軍が入ってきたら、女はどうなるかわからんからと辞表を提出させられる。「この度、家事都合により、退職させていただきます」の文言を悔しくてはっきり覚えていると、私も彼女の聞き書きでその「憤り」を聞いている。桂はそのまま働き続けるが、殆どは、「一斉退職」している。著者がこの時期の「女子従業員の雇用問題についての謎」として提起しているのは、1945年9月20日付け「読売新聞」記事「働く女性は何処へゆく」に書かれていることである。

大阪市電では……[中略]……戦争中ヤイヤイいって引っぱり出しておきながら、今すぐ家庭に帰れというような女を道具視する考え方には応じられないと、全従業員がこぞって強硬な抗議を申し込み、いまだ解決がついてない

 著者は、「大交の女子従業員たちが抗議の声をあげたとすると、……[中略]……特筆すべき事件である」と述べ、本論考のしめくくりに「この新聞記事以外にこの件についての資料は見当たらないが、なんとか、関連事実を掘り起こすことはできないものだろうか」と投げかけている。

 交労の結成が1945年11月15日だから、労使協議の記録は存在しないとしても、女性たちの怒りが渦巻いていたことは、桂あや子の聞き書きを通して伝わっているし、その後の彼女の毅然としたリーダーシップを支えていたのはこの時の怒りであろうと確信する。

 なお、桂あや子は、昨年2022年4月に百歳で逝去され、2023年10月の「第54回大阪社会運動顕彰物故者顕彰追悼式」において顕彰され、1826名の先人たちと共に、その事績は歴史に刻まれることになる。(伍賀 偕子 <ごか ともこ>)

*1:正式な敗戦日は日本が降伏文書に調印した9月2日