大阪で米騒動が爆発したのは、1918年8月11日でした。この日は天王寺公会堂(現在の天王寺動物園の南東部にありました)で、野党の立憲国民党が主催する「米価調節市民大会」が19時から開催されることになっていましたが、すでに16時頃から会場周辺は殺気だっていました。
警察もこの大会開催に厳重な警戒態勢を敷いていました。会場周辺の米屋には「売り惜しみ」を厳禁するとともに、店先の米屋の看板を撤去させるなどしたのです。
しかし、この警戒態勢にも関わらず、会場に入れなかった市民や、天王寺公会堂から南西にあたる今宮町釜ヶ崎の住民は、19時から釜ヶ崎の住吉街道(阪堺線のすぐ西に現存しています)で米屋を襲撃しはじめました。
当時の釜ヶ崎の住民の多くは、日雇い仕事で日銭を稼ぐ貧しい暮らしを送っていました。米をまとめて買うことなどできず、その日に必要なだけの米を行商人から買う毎日を送っていました。しかも、米価高騰によって行商人が休業を余儀なくされたため、釜ヶ崎の住民は米を買うことができなくなりました。そこで町内の米屋に行ったところ、なじみの客ではないからと米を売ってもらえず、住民の怒りは頂点に達していたのです。

市民や住民は、町内最大の米屋に押しかけて、1升25銭(1918年はじめの価格です)での安売りを要求しました。しかし「米がない」とこれを断られたことで市民や住民は暴徒化し、あちこちの米屋で安売りを要求して、応じた店からは米を持ち去り、拒否された店に対しては、店頭を打ち壊したのです。
大会に参加した人びとの一部もこの動きに同調して暴徒化し、11日の夜だけで、難波警察署管内の米屋412件中25件が襲撃されています。
12日になると、安売りを約束した米屋に早朝から群衆が押しかけ、今宮町も外米30石を1升20銭で売り出すなど極力対応に努めました。しかし、「1升25銭では商売が成り立たない」と、米屋は安売りに消極的立場をとっていました。そのような米屋への群衆の怒りは大阪全市にひろがっていきます。
(エル・ライブラリー特別研究員 黒川伊織。初出は機関紙編集者クラブ「編集サービス」2025年7月号。原文には写真なし)