エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『釜ヶ崎現場ノート 1975年~2007年』

小柳伸顕(サランベ舎/2021年3月/A5判475頁/私家本)

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 本書は、寄せ場釜ヶ崎におけるキリスト者の活動記録と、約30年余の自らの実践を通して問題提起してきたことを、まとめたものである。

 著者小柳伸顕氏は、1937年北海道に生まれ、大学で神学、教育学を学び、釜ヶ崎との関りは、1968~1975年までは大阪市教育委員会嘱託(大阪市立あいりん小中学校ケースワーカー)として、1975~1992年まで関西労働者伝道委員会専任者として、1992年から現在まで釜ヶ崎キリスト教協友会のメンバーとしてである。この「ノート」を非売品として発行したのは、~「人生の店仕舞い」が近づくなか、親しい友人たちに「釜ヶ崎でこんなことを考えていた」と知ってもらうため ~ であると記している。

 本書の舞台は、書名通り大阪西成区釜ヶ崎(行政名「愛隣」)だが、東京の山谷、横浜の寿地区、名古屋の笹島と並ぶ「寄せ場」の典型として、寄せ場日雇労働者の実相と寄せ場が作られる背景がリアルに語られていて、

~ 釜ヶ崎労働者は、戦後一貫して、日本経済の最先端を走らされてきた ~と。

 1903年大阪天王寺公園で第5回内国勧業博覧会が開催されるに際して、明治天皇の通り道からスラム街を撤去するために、日本橋通にあったスラム街長町が、勅令で当時の大阪市外の今宮村釜ヶ崎に移されたのが始まり。大阪大空襲で焼け野原となったが、朝鮮戦争の特需ブームで、港湾荷役が集められ、50年代から60年代にかけてのエネルギー政策と農業政策の転換で、大量の炭鉱失業者と農村の余剰人口が都市労働力として寄せ場流入。1961年8月、第1次釜ヶ崎暴動が起きるが、それは、釜ヶ崎労働者の人権宣言であったと。交通事故の労働者に対する警察や救急隊の非人間的な取り扱いへの抗議が発端だった。高度経済成長期になると、東京オリンピック日本万国博のために、全国各地から日雇労働者寄せ場に集められ、釜ヶ崎は単身日雇労働者の町へと変わっていく。その中で、幾度も労働者の権利を主張する声が暴動の形をとった。ある時は、労働運動を不当に弾圧する警察権力に対して、ある時は日雇労働者を支配してきた暴力団に対して。

 1974年のオイルショックは、協友会の働きを労働者の活動に結び付けた。不況は誰よりもまず釜ヶ崎の労働者を直撃する。その証拠が「行旅死亡人」の数である。

~ キリスト者は、できるだけ労働者の立場にたち、活動しようと志してきた ~

それは、越冬炊き出しであり、野宿者への夜回りであり、医療生活相談等であるが、その過程で接した労働者の生き様は、「戦後民主主義への根本的な問い」であると。労働者の人間としての誇りに触れる著者の視点は、日雇労働の構造や差別・人権無視への指弾として、厳しく終始真摯な本書の基調を貫いている。そして、その真摯な姿勢は、自らも含めてのキリスト者寄せ場における取り組みに対して、「自己変革抜きでの寄せ場との関りは、寄せ場日雇労働者を対象化する―自分たちのための手段にしてしまう」ことへの自己点検として語られる。自己変革とはキリスト者個々人の生き方だけでなく、キリスト教そのものの変革が問われる。~その内容は、カトリックプロテスタントと労働者三者の共闘の中から生まれる~と。

 本書では、キリスト者の取り組みだけでなく、日雇労働当事者の労働運動やその組織化の歩みについても触れられていて、その営みとの共闘を探る著者の姿勢にも接することが出来る。ただ、500頁にも近いこの「ノート」(研究論文ではないと著者は語る)のどこにも見つけられなかったのは、警察権力に守られた行政の「棄民政策」とも言える「釜ヶ崎対策」の業務を担っている職員たちの苦悩や抵抗に著者が接した機会である。自治研活動などを通して、「対策」の根本的な在り方を問い、政策提言などの試みが著者に届いていないのか、実際に語るべき内容が存在しないのか、いささか寂しさを覚えた次第である。

 これは私のつぶやきにすぎず、本書は、今まで無関心でいた人たちにも是非読んでほしい書であり、心が揺さぶられる場面に何度か出会い、自分自身の立ち位置も問われる。(伍賀 偕子 ごか・ともこ)