エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

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『水俣に生きた労働者 チッソと新日窒労組の59年』

富田義典・花田昌宣・チッソ労働運動史研究会編著(明石書店/2021 /A5判368頁)

 水俣に生きた労働者

 まず、本書の帯の呼びかけ ~公害と闘い、資本主義と闘い、人間として生きてきた人たちの作る労働組合とは何だったのか ~に惹きつけられる。その答えを探りたい。日本における「4大公害」の一つである「水俣病」原因企業で働いた労働者たちが、どのような苦闘と自己点検を重ねてきたのか、59年の歴史から学びたい。 

<その構成と執筆者>

序 章 水俣病チッソに働いた労働者(富田義典)
第1部チッソ経営と労働
第1章 労働組合運動の創生から安賃闘争前夜(花田昌宣)/第2章 安賃闘争(富田義典)/第3章 合理化の進行と労使関係(富田義典)/第4章 春闘史からみたチッソの労使関係(富田義典)/第5章 新日窒労組の運動の特質(石井まこと)/第6章 経営史・技術史からみたチッソの企業体質とその特異性(磯谷明徳)
第2部 社会史からみたチッソと労働者
第1章 1960・70年代の新日窒労組の運動を担った労働者たち(福原宏幸)/第2章 合化労連の公害問題へ取り組みと新日窒労組の水俣病闘争(鈴木玲)/第3章 「おのれの水俣病」に向き合うにいたる健康調査(井上ゆかり)/終章 チッソ労働運動史研究の課題と水俣学(花田昌宣)

  なお、編著者の二人と並ぶ「チッソ労働運動史研究会」とは、熊本学園大学水俣学研究センターが新日窒労組資料の整理・目録化作業を進めるとともに、2006年より本書の執筆者らが中心となって、元労働者たちからのヒアリングなどを課題とした研究会を開始し、本書の母体となった研究グループである。 

<新日窒労組の59年>

水俣病が、どのように悲惨な被害をもたらし、その原因である有機水銀水俣湾周辺に垂れ流した新日本窒素に対する憤りと糾弾について、また「水俣学」についての言及を、ここでは紙幅の関係で省略することを容赦願いたい。

 本書の主役である新日窒労組は、1962年4月会社側が提案した、「安定賃金、ノーストライキ」協定案に対して、当時春闘の主役であった「合化労連」の主力組合に対する攻撃を拒否して無期限ストで闘った(結果は10ヵ月間)。会社の長期ロックアウト攻勢の中で、職制層を中心に第2組合(チッソ労組)が誕生し、会社側の提案である「安定賃金と合理化協定」を受け入れた。組合分裂に対するオルグ合戦はしのぎを削り、家族組合・主婦の会、農民会などの地域組織との連携が強化される。本書の表紙写真は、年を越えて雪の中での正門ピケ風景で、裏表紙写真は、新日窒労組主婦の会デモ(三池労組主婦の会も応援に来た)で、労使対決における労働組合の存在感をかけた「安賃争議」であった。この闘いの意義は、春闘史と職場編成史における評価として第2章で分析されている。

 1980年代に入って、労戦統一を進めようとする合化労連執行部に対して、新日窒労組は反主流派組合(39組合)となるが、1990年代に入っても、「春闘でも職場規制でも存在感を示し続けた」と。しかしながら、組合員数の減少(新入社員は第2組合に所属という構造が埋め込まれていた)には抗せず、2005年3月、最後の定年者2人を出して、組合として終幕を迎えた。1962年の安賃争議における組合分裂では、「1カ月で潰れる」とまで言われた普通の労働組合が、40有余年の長きにわたり存続し、力を保った。「そのことの解明が本書の実証の根幹をなす」と。

水俣病とのたたかい>

 『水俣に生きた労働者』のもう一つの根幹は、水俣病にどう向き合ったかである。

 新日窒労組は、1968年8月にいわゆる「恥宣言」と知られる組合声明を出した。

 ――労働者に対する会社の攻撃には不屈の闘いを組んできた私たちが、なぜ水俣病と闘いえなかったのか? 正に人間として、労働者として恥ずかしいことであり、心から反省しなければならない。会社の労働者に対する仕うちは、水俣病に対する仕うちそのものであり、水俣病に対する闘いは同時に私たちの闘いなのである。(略)会社に水俣病の責任を認めさせるために全力をあげ、また、今日なお苦しみのどん底にある水俣病の被害者の人たちを支援し、水俣病と闘うことを決議する――と(水俣病の発生が公式に確認されたのは1956年5月、公害認定がなされたのは1968年)。

 この「恥宣言」をさかいに、運動スタイルに変化が現れる。組合新聞に水俣病関係情報がたびたび載せられ、同年9月には、総評水俣地協(主力単組は新日窒労組)が「水俣病市民会議」に参加して、活動を担う。しかし、「原因企業に働く者」として、「患者よりも前に出ないこと」を基本線として保持したと。同時にチッソによるスクラップ合理化計画による配転攻撃や「自宅待機」など、一人一人に対する攻撃がかけられ、水俣市議会や地域社会に対しても、チッソの責任と地域の雇用状況改善、公的融資の働きかけを行った。さらに、要員交渉でも、第2組合の組合員も含めて現場の要員交渉の代行もしたと記述されている。

 そして、厚生省による「水俣病補償処理員会」の「あっせん案」に対しても、補償額の不十分さに対して、8時間の抗議ストを敢行した。労組として公害ストを行った初めての事例とされている。ストと同日に、水俣病患者の訴訟派の人々が工場正門前で「水俣病死亡者慰霊祭」を行い、当労組も参加し、患者の運動と組合運動がクロスする局面が生まれたのである。新日窒労組が最も水俣病問題に接近したのは、訴訟が山場にさしかかった1972年3月の口頭弁論で8名の組合員が証言に立った時である。新日窒労組の闘いは、労使関係を超えて、社会的性格を帯びるようになるのであると。(伍賀 偕子<ごか・ともこ> 元「関西女の労働問題研究会」代表)