連載第18回 職場新聞(11)『じんし』その2
男子の深夜労働(22時30分~翌朝7時15分)は、人権争議前の1952年、彦根工場仕上.精紡の2つの職場で最初に導入され、綿.スフ紡績の全工程に拡大された。当初は昼番と深夜番の二交替制であったが、翌年には深夜専業の男子労働者が採用され、さらに雇用形態が1年契約となった(註1)。深夜専業は「ふくろう」労働と呼ばれ、上部組織のゼンセン同盟の指示もあり(註2)、1956年末から1957年春にかけて組合で廃止闘争が取り組まれ、各職場新聞にも関連した記事が見られる。
「深夜廃止を私たちも共に
深夜廃止を私達女性も供に斗おう。一日一日、日毎に体力の衰えて仂く彼等ふくろうは年内にその斗争が進められると情報には流れていた。しかし、難行した賃金体系の為その方針は年を越すありさまになった。
いや、年を越したとしても私達はふくろう廃止に協力して彼らの体を守らねばならない。彼等だけが一生懸命になってもおそらく勝利することは出来ないだろう。私達女性のしっかり組んだ手に手が彼らと一緒になって斗かわねばならない。(後略)」
『じんし』3号2面(1957.2.18)より
『じんし』には他にも深夜廃止に関する記事が数本見られるが、深夜番男子本人が寄稿したと思われるものはない。一方、綿・スフ紡績混打綿職場の新聞『ラップ』には、深夜番自身の悩みを示す記事が見られる。
「深夜廃止
私はハシタ者である。そして絹糸にきたがやはりハシタ者である。混打綿でも今は深夜廃止で、ハシタ者としてなれた職場も出されるハメである。(中略)技術収得者、年上の者達が自分の行く前に立っている。行く道をふさがれている自分は迷う、迷う必要もなかろう、でも迷う、どうせ五.六人は余るのだ。オレは過去において職制をためした、しかし混打綿の人員を正確に出さん、オレはそのために希望した職場にも行けなかった。(後略)」
「我に太陽を
如何なる人間でもハートを持っている。唯そのハートをどのように使うかはその人々によってちがう。自分のハートは今のところひたすらに思うこの首のことだけである。自分の首がどこにフッとぶか、もういく日もなきことだ。我々にとって深夜廃止で昼の太陽が見えることは非常にうれしいが現在では照る太陽の光は安々とあびることは出来ないのだ、あびようとするにはギセイを夛分に必要としなければならないのだ、(後略)」
『ラップ』3号(1957.3.6)1面より
このように、組合方針として深夜業の廃止が推進される一方で、深夜業従事者の再配置が大きな問題となった。彦根支部では深夜廃止に伴い会社との交渉により30名の配転先を確保したが、実際には希望退社者は80人に及び、配転需要を満たせない事態となった。
退社理由は①希望のもてない職場だから ②いつまでもエキストラ的な存在であったから ③自分のいやな職場に配転しなければならないから となっている(註3)。深夜番の配転希望先の多くは外部保全、機械保全など技術が身につく職場であり(註4)、確保した職場とのマッチングが困難であったことがうかがわれる。
(註1)朝倉克己『近江絹糸「人権争議」はなぜ起きたか』(サンライズ出版,2012)93~94・112~113頁
(註2)『大いなる翼を広げてー労働組合30年史』(ゼンセン同盟オーミケンシ労働組合,1989)95頁
(註3)『第三回支部大会報告書及議案書』(1957年6月)9~10頁
(註4)『大いなる翼を広げて』96頁
註3の報告書によれば、配置予定の職場は、晒練12名、自動車1、倉庫1等となっており、保全技術の修得が期待できない職場も多かったと思われる。
(下久保恵子 エル・ライブラリー特別研究員)
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