エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)

ブログ記事の引用転載を希望される方は、https://l-library.hatenablog.com/about をご確認ください

当館の記事が掲載された図書など

 ここ数か月の間に発行された、当館に関する記事などが掲載されている資料をいただきましたので、ご紹介します。発行日順に以下の通りです。

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①『LRG : Library resource guide』第37号, 2021.11.21, アカデミック・リソース・ガイド

 「特集 いま、Library of the Yearと向き合う」において、2016年の優秀賞受賞館として当館を紹介していただきました。「Library of the Year」は先進的な活動を行う図書館に対してNPO法人知的資源イニシャティブが授与するものです。2006年に始まったこの賞も選考基準などが変更されながら、現在に続いています。

 この特集は巻頭記事を岡野裕行さん(皇學館大学准教授)が執筆され、これまでのLibrary of the Year を振り返り、「良いものは良いと言おう」という同賞の原点である合言葉で締めくくっておられます。

『史料にみる「母親」から「女性」へ』いのちとくらし・平和を守る女性集会実行委員会,  2021.12.8 

 本書は徳島市で活動されている市民団体の小冊子です。1960年以来、毎年開催されている女性集会の記録をまとめられました。2013年に開催された第53回の集会では、当館館長・谷合佳代子が講師を務めました。そのご縁により、本誌にも記録を掲載していただいています。

③吉井潤著『事例で学ぶ図書館サービス概論』青弓社 2022.1.25

 本書は「事例で学ぶ図書館」シリーズの第1巻として発行されたものです。図書館司書課程の教科書として、あるいは現場の図書館員を読者対象として書かれています。著者の吉井潤さん(日本大学ほか非常勤講師)は長らくいくつかの公共図書館での勤務経験をお持ちで、理論を実践を結び付けようと本シリーズを企画されたとのことです。

 当館は専門図書館の事例の中に取り上げていただきました。他の立派な図書館に交じって当館のような小さくて金のない図書館が掲載されていることが、恥ずかしいような嬉しいような。閲覧室や資料の写真とともに、蔵書構成や利用者像、レファレンスサービスなどが紹介されています。(谷合佳代子)

『明治の新聞にみる北摂の歴史』  

小田康徳 著(神戸新聞総合出版センター/2021年9月/A5判310頁) 

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 著者は日本近代における公害問題史の研究、紀北及び大阪の地域史の研究者。また、エコミューズ(あおぞら財団付属西淀川・公害と環境資料館)館長、NPO法人「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」理事長としても知られている。 

 本書は明治10年~22年の新聞記事(日刊の商業新聞)から、北摂地域(池田・伊丹・箕面豊中・川西・宝塚・有馬・能勢など)の変容と新聞の対応を読み解いている。

 構成は以下の通りである。 

はじめに― 新聞と地域、変化の研究

  • 明治10年代前半、大都市から離れた地域と人間の描写
  • 明治10年代後半、社会の全般的委縮化と苦闘する人びと
  • 明治20年前後、国家の権威と新しい活動世界の広がり
  • 新聞広告が広げた北摂の世界
  • 地域に基盤を持つ公的職業政治家の出現

まとめにかえて― 草創期の新聞と都市および周辺地域の変容

◆ 「北摂」地域とは、どの地域のことなのか。

 本書の解説では、摂津国の北部地域を指しているが、摂津国大阪府兵庫県にまたがっていて、現在、大阪府だけの地域(三島町高槻市茨木市摂津市吹田市箕面市池田市豊中市豊能町能勢町)を「北摂」と呼ぶことが多いが、明治のこの時代では、兵庫県内の尼崎市、西宮市、芦屋市、猪名川町宝塚市川西市、伊丹なども「北摂」に含まれ、本書では「揺らぐ『北摂』概念」と記述されている。興味深いのは、「『北摂』概念の歴史的出現」の項で、明治22年暮れごろに、「池田町に自由主義の団体を組織する」の記事(東雲新聞)に、「北摂同志倶楽部」、明治23年1/18付(大阪朝日)で「北摂大懇親会」が記載されていて、国政選挙の関係で登場してはいるが、明治20年過ぎに、共通の地域認識が成立しつつあり、近代の前半期を通して力を回復しつつあった大阪との関係が強まるなかで、歴史的に形成された概念ではないかと推論されている。 

◆ この時期、北摂地域においては、「明治国家と対決した自由民権運動的な政治活動の低調さは否定できないが」、地域の産業構造には、顕著な変化が生まれ、「別格的な大都市」である大阪と神戸との相互交流も含めて、人びとの行動様式の変貌も、当時の新聞記事そのものの翻刻作業を通して分析されていて、興味をそそられる。 

 例えば、伝統的な酒造地である伊丹の小西酒造では、北摂企業最初の商品の新聞広告を明治14年6月に掲載し、日本酒を「酒」とせず「皇国酒」と表現しており、樽ではなく欧米の技術である「瓶詰め」を採用したことが読み取れる。経営者の小西新右衛門は2代続けて自費をもって小学校を創立し、教育に尽力した「公共的人物」であったことなども大阪日報(明治14/9/14)に記述されている。また、池田村が酒の醸造と市場で繁栄してきたが、近代以降は郡役所も置かれて、「池田村は府下第一の大邑」(大阪日報, 明治13/9/8)という記載もあり、幼児教育でも先駆けであったと。

 「新聞広告が広げた北摂の世界」では、 摂州灘地域の酒造や平野鉱泉と炭酸水、川辺郡の植木業、豊島群の産牛業などが登場し、保養地・景勝地では宝塚温泉の成り立ちや、箕面の紅葉、有馬温泉妙見山など、興味深い歴史を知ることができる。

 さらに、この地域の政治家や政治グループの登場も第5章で詳しく紹介されていて、浅学な筆者には理解しきれない情報量だが、どのような背景と葛藤があったのかを学ぶことが出来る。

◆ 当時の商業新聞を集め、保存されていたことにも驚くが、著者の「翻刻」作業の姿勢が新聞報道の変化や姿勢のあり方についても分析されていることに興味を抱くし、その時点での新聞取材が全体像や真実を報道しているとは限らないわけで、一定の歴史的検証を経た、自治体発行の地域史との照合もきちんとなされている。

 例えば、豊島軍新免村・麻田村の「水争い」について、浪花新聞と大阪日報の記事を分析して、その地域の被差別地域についての言及が表面的で、事件の構造に迫らないという本質的な問題点を指摘されていることに、著者の姿勢と方法論を感じることが出来る。(伍賀 偕子 ごか ともこ)

所蔵資料紹介~辻󠄀保治資料(近江絹糸紡績労働組合関係資料)

25. 職場新聞(18)職場

 紡績工場では原料の種類や工程によって仕事の内容が違うため、悩みや辛さも異なっていた。

 絹糸紡績晒練職場では、原料を晒練(絹成分を取り出すため、ソーダを入れて煮沸・腐敗させる工程)した後、洗濯するが、これは女性の仕事であった。仕上練が終った原料を鎌や手で運べる大きさに千切り、洗濯機に入れるが、かたまりが大きいものは水に濡れて重く、扱うのが重労働だった。

本当につらい水仕事

今日も又暑い。仕事をする前から汗が出る。それにしても今日は洗濯場、思っただけでも力がぬけそうだ。

最初は元気良くいつもの様に長ぐつをはき、ゴムカッパをあてて勇しい姿で仕事を始める、間もなく汗と水で着ている物は全部ぬれてしまう。しかしみんなは一生懸命ガンバッテいる。なかなか切れない綿を体がくたくたになるまでして重い綿を洗タク機の所まで運び、そしてそれを投げ入れて洗う。又綿を揚げるのに五尺足らずの身体をヨジマゲながら力いっぱい引き揚げる、こんな動作すら思う様に出来ない時本当に泣きたくなる。それだけでなくまだまだ他の作業が沢山待っているのだ。一生懸命仕事をしている時はそれまでもないが(感じないのだが)仕事が終って部屋に帰ってから腹が痛くなったり、体中がだるかったりで後は何にもする気にもなれないのです。(後略)」(絹紡晒練『晒練職場新聞』3号1面)

 

 絹糸紡績製綿職場では、円型梳綿機に上って作業する担当者は、機械に巻き込まれないよう、ウェストぐらいの高さにつけられた板に体を預けて仕事をする。

お腹が痛くて仕事も出来ない

生理の時円型につくのはとてもつらい、何もしなくてもお腹が痛いのに板にのっかるとますます痛くて立っていれなくなる。それに私は月に二回もあるのでたまりませんわ。」(絹紡製綿『蛹粉の中で』3号1面)

 

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円型梳綿機で作業を行う担当者。見えていないが、担当者の立っている側に板がついている。(1955~1957年,彦根工場,朝倉克己氏提供)

  綿・スフ紡績仕上職場では、糸を巻き上げた最終製品(円筒形のものをチーズと呼ぶ)を丸場(集積場)へ運搬しなければならない。

「チーズ村から

覚えているかいあの頃も

泣き泣き運んだチーズの山を

丸場へ積み出す眞白なチーズ

見るたび辛ッいよ俺等のな

俺等の仕事

覚えているかいあのつらさ

一人で運んだナ■台持

競争もしな乍ら運んだっけな

思うだびよくもやっと

この腕をなこの腕をなでる

覚えているかい光ったあの目

チーズを落して怒られたっけ

玉子を持つように運べと云った

今でも浮ぶよあの頃の

あの頃の」(綿・スフ紡仕上『じんし』2号4面)

 

今も昔も仕事を休みたいのは一緒である。

金をくれたら休む

でも……。

やすみたい、休みたい。

私の心のなかは今日■の休みたいでいっぱい。でも今の所あまり休むわけにゆかない。休んでも金をくれたら、いくらでも休みたい。早く楽な生活が出来る世の中にしてほしい。

してほしいじゃなくて自分でやらなければ、だれも楽にしてくれない。いつまでまっていてもむだである。どうしてこんな世の中であるのかと、云うことを考えよ。」(絹紡製綿『蛹粉の中で』14号4面)

 

でも、小さいことで時々なごむ。

「今日も元気の良い唄声が練場の上から聞えて来る。此んな日、女の人は、あゝ今日は男子の人は、高気圧だなあと云う。たしかにそうだ。

歌の聞こえない日は底気圧なのだ、その日は女の人にもあたり洗濯場の人は笑顔すら見せない。何かにつけて腹立せ、又気の良い時には、口々に女をひやかし、ひやかされる女も高気圧に成っている。こうして晒練男子には晴れたりくもったりする日がある。何かに付けて立腹又何かに付けて笑顔をみせる。此れが今日の晒練に仂く若者の青春なのだ。 らくがき助より」(絹紡晒練『晒練職場新聞』6号3面)

 

応援してもらう時うれしいワ

(前略)赤ランプがつき運転がつきはじめた、ついたのはいいけれど、糸切れとテープはづれ(注1)でボコボコ(注2)になっていた。私はそれをいやいやながら、一人で継いでいたのです。すると一人の玉揚の人がきて応援して下さいました、そのときのうれしかったことをわすれません。応援する人はいつもして下さいますが、しない人は少しぐらいの運転切れ(注3)やテープはづれなどは応援しません。私たち台付は運転切れが元でボコボコになるのです。台付だって玉揚の人のいそがしいことは誰よりもよく知っています。でも台付としては、少しでも応援して下さる気持だけでうれしいのです。(後略)」(綿・スフ紡精紡『ぼこぼこ』5号3面)

 

(注1) 糸を巻き取るスピンドルを駆動するためのテープ。外れるとスピンドルに糸が巻き取られず、篠巻の糸が切れ、機械が綿だらけになってしまう。

(注2)精紡中に糸が絡んで毛羽がくっつき、木管に巻き取られず、糸切れする状態のこと。

(注3)機械の不具合等で、一旦、機械の運転を止めること。

(下久保恵子 エル・ライブラリー特別研究員)

 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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新着雑誌です(2022.2.8)

今週の新着雑誌です。

新着雑誌のうち最新のものは貸出できません。閲覧のみです。

労政時報 4029号 2022.2.11 (201417144)

人事実務 No1229 2022.2.1 (201415577)

企業と人材 No1108 2022.2.5 (201415601)

月刊人事マネジメント 374号 2022.2.5 (201417110)

労働経済判例速報 2467号 2022.1.30 (201417052)

労働法学研究会報 No2758 2022.2.1 (201417086)

賃金と社会保障 №1793・94 1月合併号 2022.1.25 (201417177)

 

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新着雑誌です(2022.1.28)

今週の新着雑誌です。

新着雑誌のうち最新のものは貸出できません。閲覧のみです。

労政時報 4028号 2022.1.14・28 (201415569)

企業実務 No851 2021.12.25 (201415429)

企業実務 No852 2022.1.25 (201415452)

月刊人事マネジメント 373号 2022.1.5 (201415486)

労働経済判例速報 2466号 2022.1.20 (201415593)

労働法学研究会報 No2757 2022.1.15 (201415395)

労働基準広報 No2087 2022.1.21 (201415510)

 

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『沈黙の扉が開かれたとき 昭和一桁世代女性たちの証言』

山村淑子・旭川歴史を学ぶ母の会編(ドメス出版/2021年12月/A5判318頁)

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 本書は、山村淑子とともに、北海道旭川で昭和一桁世代の女性たちが「戦争で奪われた学ぶ権利を取り戻したい」「女に生まれたということだけで奪われていた『私』の人生を取り戻したい」という動機から1978(昭和53)年に立ち上げた、自主的な歴史学習会「旭川歴史を学ぶ母の会」の活動記録から編まれている。

 東京で高校生に歴史を教えていた教員の山村が、夫の赴任で旭川に転居してすぐに出会った二人の女性から、「日本史の勉強の手助けをしてほしい」との申し出を受けて始まった(発起人=永山鈴子)。そして北海道新聞や市の広報を活用して、昭和一桁世代に参加を呼びかけて発足。学びたいという願いがどれだけ強いものであったかは、最終例会の2014年まで、36年間の例会(月1回)学習と調査活動が続いたことが示している。講師の山村は87年に旭川を転出しているが、その後も録音テープの往復で会活動は続いた。

 

<私たちの記録Ⅰ・Ⅱ ―「戦争体験」・「私たちが受けた教育」と「歴史認識」>
 昭和一桁世代(1927~1934年生まれ)は、「満州事変」が1931年に始まり、1937年に日中戦争、1941年に太平洋戦争開始と、戦争が日常化したなかで成長しており、1945年8月の「敗戦の日」の年令は11歳から18歳で、思春期・青年期を戦争のなかで過ごしている。「太平洋戦争」についての丁寧な学習を重ねたうえで、自らの戦争体験、敗戦体験を語り合い、それを次世代に伝えるために記録化したのが第一部である。開戦日のこと、学徒動員、勤労奉仕疎開、敗戦日のことなど、20名余の女性たちの具体的体験が自らの内面的な振り返りを通して対象化されている。

 書名の「沈黙の扉が開かれたとき」は、戦争の被害者意識からだけでなく、戦争に参加したことの客観的振り返りについての熱い相互議論がなされた時を示している。女学校時代、「お国のために」使命感をもって「お国に尽くした」が、兵士として動員された男性たちに対して、「直接お国のために尽くしているという実感がなかった」「男に生まれていたら、鉄砲を担いで戦いたかった」と、心のうちに秘められていた「本音」が表出した瞬間だった。学徒動員や勤労奉仕の「働き」の先にあったのは、アジアの人々への侵略である「戦場」だったことに気づいた。その衝撃と気づきを「忘れることのできない日」と題して記されている。そして、戦争体験をどう生かしていくのかの課題を抱えて、自己変革の過程を歩む学びと討議が重ねられた。

 戦争中に学校や新聞などで受けていた情報と、この学習会で知った事実との差に「深い憤り」を感じ、「教育」というものがどんなに大きな意味合いをもっているかを実感したのだった。「私たちの記録Ⅱ」は、会員の戦争体験を踏まえて、「教育」の側面から日本の歴史を学びなおした記録である。教育を受けた側からだけでなく、国民学校の女教師であった会員の戦時期教育と戦後民主教育の間での戸惑いと自戒の記録も含まれている。

 さらに、侵略戦争の支え手となっていった原因は何であったのかの手がかりをつかむ一つの方法として、「教育に関するアンケート調査」を会員の周りの人々100名に協力依頼している。その集計結果も非常に興味深い。

 第三部は、「あたりまえの人々」の声を聞く資料編となっていて、上記のアンケート報告や、「歴史的事件六項目」についての聞き取り調査が組まれている。

 

<戦後女性史における貴重な足跡>
 字数の関係で個々の展開を追うことは出来ないが、講師の山村は本会の活動の意義を以下のように記している。 

~ 歴史を学び自分自身で考える力を付け、女に生まれたというだけで奪われていた自己を確立しつつ、自らの体験を後世に伝えることを目標に掲げて生きる力に変えていった「旭川歴史を学ぶ母の会」の女性たちの存在は、細やかではあるが、戦後女性史のなかに貴重な足跡を残したといえよう ~と。

さらに山村は、これらの活動の意義を普遍化しつつ、「地域女性史とオーラル・ヒストリー」という論考を「まとめに代えて」として、重要な問題提起をしている。(初出:『歴史評論』№648/2004年4月)。(伍賀 偕子 ごかともこ)

所蔵資料紹介~辻󠄀保治資料(近江絹糸紡績労働組合関係資料)

24. 職場新聞(17)楽しみ

 彦根工場は琵琶湖が近かったこともあり、ピクニックの記事が多く見られる。

楽しかったピクニック

みんなで遊びに行った

うんと大きいニギリ飯を、たんとこしらえて、イモを二貫も持って……。朝の大雨は、私達のピクニックを祝福する様にからりと晴れた。

準備に取りかゝるみんなの手は軽やかに、あついあつい…「ほらこれにもうんと大きい梅干を」とにぎりめしを、「漬物はこのお重箱にね」と云う様に。かざり気もなくたゞ、お腹のふくらむ食物がたんと出来た。

町へ出たトッコウタイも汗をふきふき帰って来た、さあ出発だ、男は運搬車よ…と。

松原を少しこえた磯では泳ぐ人も少く…。さあー泳ぐ人は泳ぎな、ウチ等イモを煮てやるで」

モモもトマトも風呂敷にまいて、ビワコへ投げ込み、スイカもゴロンと……。 こんな調子で楽しい一日だった。(オワリ)」

 (絹紡晒練『晒練職場新聞』13号1面)

 

他社の労働組合(下記は、野沢セメントとの交流会の記事)との交流もあったようだ。

何も話さなかったけど

こんどはピクニックに

楽しかった交流会 

私しは何も話さなかったけど、聞くのがおもしろかった。私しのグループには、ほがらかな人ばかり 私もほがらかな方だから、あんな人が大好き、苦しい事を話し合って、ほんとうに皆いっしよだと思って、自分もしっかり、職場の事、寮生活を、一日も早く、楽しい職場、寮にしなければと思った。男性はあっさりしたもので、きづのある人の事もくわしくおしえてくれた。ジェスチャーがあっておもしろい所が、あったと思う。いつかピクニックにいったりしたら、まだまだ話せるように、なるだろう。

 

野沢の人は、現場的にも、又年令の差があるため、お互いあまり話す機会が、ないとのことですね、そのため、会社、組合の、アツリョクが、強いとか、お互いに、団結して、仂きやすい現場にして、明るい生活を、きずき上げてください。」

 (絹紡製綿『蛹粉の中で』14号2面)

 

 何と言っても、食べることでは盛り上がる。

もっぱら食気

誰か特攻隊にいきなとKさんが言う

あんたいきないきなと、言っている内にSさんがだったら私が いくから金出しなと出る すると今まで寝ていたはずの人まで のそりと起きて十三円出し パン(チョコ)を頼む、何しろ 一日食べなかったら三日も四日も食べなかったような気がするらしい。

その内 特攻隊が無事帰って来る。戦争の特攻隊は 一度行ったら帰ってはこれなかったが 絹糸の特攻隊は帰ってこないわけにはいかないらしい パンの袋をバリッと破ってパンにかぶりつくと 又 かぶりついた所が何とも言えない恋の味と書きたいのですが 残念ながらパン独特の味しかしませんね 食う話と出たらそれは、又、花の咲く咲く桜の花のように咲くね 第一にすし 次ボタモチ おしるこ まだまだ沢山出ますが ざっとこんなものが面に出る。話が着々と進み次には何か作って食べる事に話か(ママ)まとまる、こんな都合で私達、今、もっか食気で色気は全々と言いたいのですが?」(綿・スフ紡混打綿『ラップ』5号1面)

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綿・スフ紡仕上『じんし』5号3面

 いつの時代も「推し」は心の友。

私の好きな人 美空ひばり 

山口ユリコ

大好きなひばりちゃん、どこが好きと云れても、みんな大好きなのでこまるけど、歌も映画もすばらしいのに、今の自分に満足せず、おとなしくコツコツやってる、あんなひばりちゃん大好きです。もちろんかをも好き、どことなくひかれる所があるの、」

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絹紡製綿『蛹粉の中で』14号3面

 職場会でこっそりレース編みしていたの、誰ですか。

レース編、出そうよ

レース編の展示会が四月初めに行われます。ガス焼でも台の中などでさかんでしたね。冬中かかって編み上げた作品、えんりよしないで出しましょう、といっても「もうあの人にあげてしまったわ」とゆう人が有るかもね

これは残念!  江海絹子」

(絹紡ガス焼『ほのお』13号2面)

 

 そして、やっぱり少しのときめきが大切。

ダンスはたのしい

異性と踊るんやもん

「ウチこの頃何もかもいやになった。一ばん楽しい時はダンスしている時や、何もかも忘れて踊れるもん。」

食事休みの一とき、今年も終りに近づいたクリスマスの話に花がさいた。

「そうや、ウチもダンスはたのしいわ、どうして楽しいのやろ。」そこでみんなどうして楽しいのか考えはじめた。

「ウチは、思うんやけどやっぱり男の人と踊れ からやないやろか。」

「ウンそうや。そうやけどネ、男の人で自分の彼女とばっかり踊っている人スカンネ。」

「ウチはネすぐおぼえられてたやすく踊れるから楽しいのだと思うわ、それでいてアキがこないのね。」」

(綿・スフ紡精紡『ぼこぼこ』5号2面)

(下久保恵子 エル・ライブラリー特別研究員)

 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
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