29. サークル誌(1)
辻󠄀資料には、近江絹糸各工場で活動していたサークルが作成したサークル誌が16タイトル41点(重複を除くと38種)含まれている。最も多いのが彦根工場のもので、12タイトル37点(34種)にのぼる。彦根工場のサークル誌はその作成年代、背景によって、概ね3つの資料群に区分できる。
第一は、人権争議終結後の1954年10月から1956年4月に発行されたサークル誌である。『波紋』(若葉会、話合[文学])、『ともしび』(読書会、文学)、『クルミ』(クルミ会、演芸・コーラス)、等が存在している。
人権争議発生後、近江絹糸の各工場では、文芸・音楽等のサークル活動が一気に盛んになった。1955年7月の彦根支部大会報告には、文学関係3、話合1、演芸・コーラス1、絵画1の6つのサークルが列挙されている。
サークル誌の内容を見ると、「緑の会はアカでもなんでもないと言う事をよく知ってもらいたいと思います」(緑の会『波紋』創刊号6頁)等サークル活動が政治活動の場と見られていたことがわかる。当時を回顧する座談会において、辻󠄀自らが、共産党細胞等のサークルへの関与について話していることからも、人権争議期の文化活動は争議にかかわった様々な政治勢力と無縁では有り得なかった。一方で、同じ座談会で、辻󠄀は「…おそらくサークルは自然発生的に生まれています。そこに後から共産党の指導が入ったということはいえますが、彦根の場合生まれたのは自然発生的だと思っています。」とも語っている(注1)。
争議中に彦根支部文化部が創刊した『暁起』(1954年8月発行)は主に組合員が投稿した手記や詩を中心に編集されているが、創刊号に、「労組の文化活動について」と題した座談会の記事が掲載されている。これは、全繊滋賀支部が司会で、日清労能登川、東レ瀬田、鐘紡彦根などの労働組合の教育文化担当者が出席し、近江絹糸のこれからの文化活動に助言をしようという企画である。
しかし、組合員の自主的な投稿を中心とした機関誌の発行やサークル活動の積極的支援を行っている組合は少なかった。むしろ、「近江絹糸で、今後、文芸サークルとか、その他の文化活動を、いかに活発に行なって行くか」、経済面からも「うまく会社にやらせる様に仕向けるという動きを示す事が大切」であり、「この大争議で、いろいろ原稿として書く事は今の所は、なんでもありますが、これからは、そういうものもなくなつてくんじゃないかな」という感想が述べられている。
これに対し、近江絹糸の文化活動担当は次のように述べている。
「‥私としては、近江絹糸の組合員は、本当に百八十度転換したと思うんです。今迄、圧えつけられていて何も思つた事をしゃべれず、日記以外は、公にしてペンを動かす事されなかつたですが、今は違うんです。この発刊【著者注:本記事の掲載されている『暁起』のことだと思われる】に当つて各支部からの原稿を募集した所圧倒的多数の真実の声が寄せられたのです。どれも今迄に見られなかつた人間として、人間らしく真剣に生き抜こうと言う、真に胸を打つものです。」
すでに、軌道にのった労働組合活動の一部門として教育文化活動を行う他組合と、文化・表現活動が自由の象徴として、労働運動と一体となって進められる高揚期にあった近江絹糸労組との温度差が読み取れる。
(注1) 「近江絹糸の思い出」(『大阪労働運動史研究』NO.15,1985)25-26頁
(下久保恵子 エル・ライブラリー特別研究員)
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