連載第5回『第一回編集委員会のまとめ』 (近江絹糸紡績労働組合[1955年])
近江絹糸労働組合は人権争議終了の翌年、1955年6月、組合結成1周年記念文集の出版を計画し、作品を募集したが、応募者は限られ原稿が集まらなかった。その後、各支部の教文部の代表者による話し合いで、整った作文ではなく、日記や「なんでも思っていることをかく落書、よせがき」を含む原稿を広く募ること、共同編集のための編集委員会を作ることが決定された。その後の編集委員会で、記念出版の目的は「文集を作る」ことから、「みんなで書く運動―らくがき運動」の推進へと大きく転換する。
『第一回編集委員会のまとめ』 における次のような結論は、そのことを如実に示している。
「文集を出版することが目的ではない」「みんながどんな方法でもそれぞれとりつきやすい方法で自分の思っていることをそのままのことばで書こう、みんなに表現の場と機会を与えよう」「組合員や幹部の胸にある苦しみや悩み、要求をはだかになって話し合い書いてもちより、これを組織して大衆にかえすのが文集である。」
原稿を集める方法は各支部に任された。壁新聞、職場・寮・トイレに落書帳ノートを置くなど様々な取組が行われ、結果、多くの落書が書かれた。無記名が原則のため、会社に対するものだけでなく、労働組合や労働者相互の不満・意見や恋愛の悩みまで、内容は多岐にわたった。当時の労働者によれば、これらのラクガキに類することは、争議前には便所のラクガキとして書かれていたことであるという(註1)。実際、カメラサークルに便所や柱の特徴的な落書を撮影を依頼するという形でも「らくがき」を収集した(註2)。
こうして各職場から出されたらくがきが編集され、1956年5月、「らくがき」として、近江絹糸紡績労働組合から出版された。その後、三一書房からも一般出版物として出版され、様々な労働組合から注目を浴びた。
(エル・ライブラリー特別研究員 下久保 恵子)
(註1)「これはね、この本としての「らくがき」そのものは人権争議の引き金になった、人権争議22項目の要求を掲げて闘いましたけども、その基になっているのがこのらくがきなんです。それはトイレとかそういう所に主に書かれてあったらくがきです。それをまとめて争議解決後に本にしたんですよね。」『近江絹糸人権争議オーラルヒストリー(1)』p88
(註2)「第二回編集委員会のまとめ」[1955]
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